主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。ルカ福音書7章48節

罪の赦しの福音

私が改めて今日の聖書の物語を読んだとき、この罪深いと呼ばれている女性ほど、はじめからイエス様におのれの罪の赦しを求めて近づいていった人物は他にいるのだろうかと思わされました。
エス様との出会いは、人それぞれ、自分自身の人生の危機から始まります。目を開けてほしいとイエス様にすがりついた盲人、自分の娘を助けてほしいとイエス様に近づいた父親、イエス様に一方的に呼び止められて、職業を捨ててイエス様について行った弟子たち、永遠の命という命題につまずいてしまったユダヤ人の教師、みなそれぞれの人生の危機の中でイエス様を求めて行きました。みなそれぞれが、自身に起こった心の渇きを満たすためにイエス様に近づいて行きました。それぞれの出会いは一つ一つ非常に尊いものです。しかし、何よりもイエス様の本質は罪の赦しにあるということを教会は正々堂々と語っていかなければならない。人の罪を赦す赦し主としてのイエス様の姿を語っていかなければならない。ルカはこの女性を通して、罪の赦しの福音こそイエス様の中心であることを私たちに伝えようとしているように思えます。
724節から、イエス様は群衆に向かって、「あなたたちは何を見に荒野へ行ったのか」と問いかけました。私たちは、何を見に教会に来たのでしょうか?何を求めて教会に来るのでしょうか?風にそよぐ葦でしょうか。華やかな衣装でしょうか?イエス様は今日も、「あなたたちは何を見に、何を求めて私の下に来たのか?と問いかけていらっしゃるのです。
教会は罪の縄目にとらえられたまま、汚れと恥の中に、沈み込んで、まったく光が見えず、もがき苦しんでいる人々に、救いの道を告げ知らせるところでなくてはなりません。
罪とは何でしょうか。個々の過ちは罪の結果であって、罪の本質ではありません。罪とは人がこの世に生きていることです。滅びに向かって生きていることです。どんなに善く生きようとしても、人は過ちを犯さずには生きられないことです。『この町に一人の罪深い女がいた』と簡単に記してありますが、この女性は自ら望んでそう呼ばれるようになったのではありません。気が付けば、いつのまにか罪に身を染めなければ、生きることのできない境遇に絡めとられてしまっていたのです。これをのろいと言います。
パリサイ人シモンは、この女性の生い立ちの表しか見ることができませんでした。しかし、イエス様はこの女性の心の嘆きを知り、憐れまれました。そして、この女性は、イエス様の心を知り、罪を赦していただくために、吸い寄せられるようにイエス様に近づきました。
エス様は優しく語られました。『あなたの罪はゆるされた』、『あなたの信仰があなたを救った、安心して行きなさい』。イエス様は、罪の存在である私たちをそのまま赦し、さらに、私たちを罪の縄目から解き放ち、新しく生きる力と新しく生きる道を備えてくださる方です。この福音を告げ知らせるのです。
2017.10.29  中野集会