主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも、 ヨハネ13:34

最近は、「わたしがあなたがたを愛したように」という、イエス様からの愛を主にしてお話することが多くなっています。
私たちは、愛し合うことについて、何か結婚式で語られると、完璧な愛を生涯に渡って維持しなければならないのではないかと非常に思い違いしやすいのではないでしょうか。事実、私自身も、イエス様が愛したようになんて言われると、何よりも十字架の上で命を捨てるほどに私たちを愛してくださった方ですから、そんな愛し方は到底無理!と尻込みし、この御言葉は、理想論を語っているに過ぎないのではないかと、逆にこの御言葉を聞き流そうとしてしまいそうです。
今日、改めてイエス様が愛した弟子たちのことを考えますと、イエス様は、できの悪い弟子たちを愛して下ったのだなあと気付かされました。ペテロもヨハネヤコブも聖書のせの字も知らない漁師たちでしたし、ザアカイも、マタイもはじめは金儲けのために働いていた人間でした、熱心党のユダは、ローマ政権に対して密かにクーデターを願っていた人間ですし、トマスは疑い深い人間でした。ペテロは自分が一番という優越感、競争意識がなかなか抜けず、どの弟子たちもイエス様を慕っていましたが、イエス様がなぜ十字架につかなければならなければいけないかなど、全然理解していませんでした。弟子たちの信仰が薄く、イエス様は幾度も弟子たちの姿勢に嘆かれたこともありましたが、それだからといって弟子たちを見捨てたりはしませんでした。

エス様は、一人一人非常に個性の強い、灰汁のある弟子たちを愛してくださっていたのです。イエス様は、弟子たちに立派になりなさいとか、完璧な人間になりなさいなどと言われたことは一度もありませんでした。
エス様が、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたのは、わたしが罪人であるあなた方を愛したようにと言われたこと、それは、イエス様が弟子たちをどのように見ていたか、接していたかをよく学んで、そのように愛するということであったのではないでしょうか。
繰り返して思いますが、イエス様は弟子たちが理想的な人間であるとは全く思っていなかったし、理想的な完全な人間になることも期待せずに、愛された。

結婚生活を初めていくとすぐに気がつくことは、相手は自分の思い通りに動いてはくれないということです。自分の期待していたようには振る舞ってくれないことに気がつきます。相手に一番期待していたことを、期待できなかったなどということもよくあるのではないでしょうか。それは、性格のことだけでなく、身体的なこと、経済のこと、家族関係のことなど、想像もしてなかったような期待外れがあるものです。

夫婦についても、イエス様が言う互いに愛し合うということは、相手に完全を求めていくことではないということに気がつかなければならないのです。
私たちは、つい相手が自分の思い通りであることを求めてしまいがち。
自分の中に作られている夫婦の理想的な、自分が求めている夫や、妻の姿を追求しがちなのではないでしょうか。
しかし、イエス様が命じられたことはそうではない。
いわば期待外れであったとき、私たちはどう振る舞えばよいかというと、ここで、イエス様の言葉をよく噛みしめたいのです。
わたしは、イエス様にどのように愛されたのか?それは、決して立派な人間だから愛されているわけじゃないよな。と。
それならば、妻に対して、自分の理想を求めちゃいけないよな、長所もあれば、短所もあって、欠点もたくさんあって、そんな自分を愛してくれているように、妻を愛しなさいというならば、妻をそのままで受け入れていくことが大切だよなと気がつかなければならないのです。これは、できるだけ早く気がつくほうがいい。

エス様はもともとだめ人間を愛してくれたのだから、夫婦の愛を考えるときも、相手もだめ人間であって当然だし、だめだと思うことがあっても、私もだめなんだけどそんな風に愛しされているのだから、まあいっか。と大目に見てしまうことが大切なんではないかと思います。

もう一つの視点は、夫婦もろともイエス様は愛してくださっているということ。互いに仲睦まじく、仲良い夫婦が理想であっても、なかなかそのようにあり続けることが難しい現実の夫婦生活に失望してしまってしまうこともあるのではないでしょうか。
しかし、イエス様は、そんな夫婦であっても、同じように愛して下さっている。仲良くても、仲悪くても、そんな夫婦を見捨てたり見放したりせず、愛し続けてくれているというイエス様の愛に目を向けて、こんな夫婦であっても、まあいいかと思うこともまた大切なのではないかと思います。
エス様の愛は、ほころびを繕って下さる愛でもあるのです。
「しかし、神は、知恵あるものをはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするために、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」第一コリント1章27~29節