主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

絶えず祈りなさい。               Ⅰテサロニケ5:17

  彼が巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、
  おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。
  
  この香は聖徒たちの祈りである。                      ヨハネによる黙示録5:8        


  彼らは大声で叫んで言った。
  『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』                                            ヨハネによる黙示録6:10


エス様の再臨を強く伝えているテサロニケ人への手紙の中に、
『絶えず祈りなさい』というよく知られている御言葉が記されています。
なぜ、この書の中にこの御言葉が置かれているのでしょうか?

迫害の中にいる当時のクリスチャンにとって『主よ、いつまでですか』という大声の叫びが常にあったにちがいありません。
いつになったら、この迫害が止むのか。
いつになったら、主は私たちの真実の叫びに答えてくれるのか。
いつになったら、正しいさばきが行われるのか。
主よ、いつ来てくださるのですかと主を待ち望んでいたに違いありません。
苦しみの中に、主の喜びがあると同時に、肉体を持つ者の苦しさと困難がつねに入り混じっていたのではないでしょうか。
いつになるか分からない時、心は萎えてしまい、祈る手を下ろしてしまいたくなるものです。


そんな彼らに対して、『祈り続けなさい。祈ることを止めてはいけない。
これは、神様があなたがたに望んでおられることなのだから、』とパウロは必死で勧めていたです。

なぜでしょうか?
祈りに対する聖徒らの疑問は、どのように答えられるのでしょう?


黙示録を読むときに、私たちは、絶えず祈ることに対する確信を得ることが出来ます。

黙示録5章では、
死に打ち勝たれたイエス様への礼拝の前に立ち上る香は、今までの時代のすべての聖徒らの祈りであると記されています。
幾万の聖徒らの祈りはイエス様の前に届いていることを私たちは知ることができます。
神様は、このような聖徒たちの祈りを一つも無駄にしておられなかったということが黙示録に記されています。

また黙示録6章では、
主よ、いつまでですか?という聖徒の叫びに対して、その祈りは答えられ、黙示録6章11節に『・・・もうしばらくの間、休んでいなさい』との主の言葉がかけられたのです。
主は主の御名を呼ぶ者の祈りに答えられ、白い衣を着せ、そして、御許で休息を与えられたことが記されています。
エス様は私たちの祈りに必ず答えてくださる方です。


『絶えず祈りなさい。』の御言葉に
主よ、いつまで祈り続ければいいのですか?と問いかけたくなる兄弟姉妹たち、
主イエス様は、あなたの祈りを一つも無駄にはしていない。
涙の祈りの一つ一つが主の前に香をとして捧げられていることを覚えましょう。
主イエス様は、祈りに答えないのではありません。
もうしばらく、待っていなさいと語りかけています。
だから、永遠の時を信じながら、あきらめず、この地上にいる間、絶えず祈り続けていきましょう。

愛する者のために、
困難と迫害のために、
癒えぬ病のために、
広義と公平のために、
平和のために、
理解できないことのために、
絶えず祈り続けてゆきましょう。