主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

イエス様は礼拝を受けるにふさわしい御方です。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。エペソ人への手紙1章20節

すべての主権は今、イエス様にあります。現生だけでなく、来生においても、すべての時間軸の中において、イエス様は主です。なので、旧約聖書の時代においてもイエス様は主であり、また、地理的にも、すべての地域においてのまつりごとにおいても、イエス様は主です。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。ピリピ人への手紙2章9,10節

エス様は、天界(天の世界)においても、地界(目に見える地上の世界)においても、霊界(天使の世界、黄泉の世界、すべての霊の世界)においても、主であられます。私たちは、み言葉の通り、イエス様の御前にかしこみ(ひざまずき)、心からイエス様は主ですと人々の前で公に宣べ伝えることを通して、父なる神様に栄光を帰するのです。
これは、主日の礼拝において特に覚えるべきことであり、礼拝式の中で、イエス様が主であることを宣べ伝え、信仰を言い表すことを通して、父なる神様はたたえられるのです。父なる神様は、イエス様にお与えになったすべての主権を贖われた人々がこれを覚えて、イエス様を礼拝することを喜ばれるのです。

このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。へブル人への手紙12章2節

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。ピリピ人への手紙2章8節
エス様に対して、なぜ、父なる神様はすべての主権をお委ねになられたのかを、心に覚えつつ主ご自身を礼拝することが大切です。それは、イエス様が十字架の死に至るまでに父なる神様に従順であられたからです。父なる神様は、このイエス様の徹底した(言葉の表現では限界がありますが)従順をご覧になり、イエス様を義と認められたと言えます。それゆえ、父なる神様は、全能の御力をイエス様に働かせ、御霊によって、イエス様を復活させられたのです。
私たちは、イエス様が十字架の死に至るまで従順に歩まれたゆえに、義とされ、信じる私たちも義と認められ、滅びゆく身分の者が礼拝者へと変えられたことを喜びつつ、父なる神様と御座におられるイエス様を礼拝するのです。

『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる』
小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。黙示録5章5節、7節

ここには、イエス様が天に昇られてから、神の右の座に着かれるまでの間に、天において何があったのかが記されています。また、なぜイエス様が神の右の座につくことが許されたのか、なぜ、イエス様が神の右の座につくことがふさわしいのかが記されています。
巻物を受け取るとは、父なる神様からすべてのさばきの権能、権威を授かることを意味しています。いまだかつて、この巻物を受け取るにふさわしい人はナザレのイエス様の他、いなかったことが黙示録5章の前半に記されています。

すべての主権がイエス様にゆだねられている今、父なる神様はイエス様に礼拝を捧げる民を求めています。上にあげたみ言葉を見ると、イエス様の生涯は十字架の贖いで完成ではなく、(救いは十字架の贖いで完成しましたが)、復活ののち、天に昇られ、主なる神として礼拝を受けるにふさわしいお方としての身分を父なる神様から与えられるという先があることが分かります。さらに、イエス様は裁き主として、世をさばき、また報いを与えるために再び来られる再臨の主として歩まれることも記されています。
エス様は十字架にかかり死んでよみがえり、今も生きておられるというだけでなく、
礼拝の主であることをしっかり心に覚えるものであります。

キリスト者として、今の世においてどう生きるかということをキリスト者は探し求め、
その答えを礼拝式の説教の中に見出そうとすることも多いかと思います。しかし、その説教が自分自身に適用できなければ、失望してしまいます。つまり、恵まれなかった。。と。
しかし、私たちの心が主ご自身に向かい、そして、主の血潮によって、至聖所において、主ご自身を霊とまことをもって礼拝することが出来た時、私たちの心は、主に満たされ、
おおよそ、この世における私たちの問題は小さなことであったことに気が付き、また多くの問題が解決されてることに気が付くのではないでしょうか。主イエス様の御名に栄光が帰されますように。