主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

あなたは初めの愛から離れてしまった。ヨハネ黙示録2:4

初めの愛を想い起す
罪の赦しの福音

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。黙示録3:5

一人、今まで以上に迷い、一人、アパートで祈っているときに、聖霊が臨み、悔い改めの霊が下って来た。
私は、自己実現を目指し、教師を辞めたことや、協力隊に参加したいと願っていたことや、流道の内弟子になろうとしていたことなどすべてが、自己中心の罪であることを教えられた。
どうつながりがあるかを説明することは難しいが、
大学卒業後、自分が必死で求め続けてきていた道そのものが、主の御心から外れた罪そのものであることを深く気づかされた。
自己中心、自分勝手、自己実現、どれも罪を別の言い方で現したものに過ぎない。
神の御心を尋ね求めて生きようとしないこと自体が罪である。

自分の罪を示された時、同時に、この罪は赦されないほど大きなものであることを悟らされた。
そして、この罪が赦されなければ、滅ぶしかない、神に裁かれる以外に道はないことを悟らされた。
そして、この罪を赦して欲しいと本能的に願った。
そして、この罪を赦すことのできる方は、一度も罪を犯したことのないイエス様以外にはこの世のどこにも存在しないことを悟らされた。
それは、聖霊様が全世界のすべての人物や事象を示され、どれもこれも人の罪を赦すに値しないものであることを示された。

罪とは何か。罪とは人である。
人が生きていることである。
人の存在が罪である。
ゆえに、人は生きていること自体が滅びである。
人は生きながら破滅に向かっている。

人の生きる欲望はすべて罪である。
人は生きている限り、罪しかない。

しかし、人の罪だけを見つめていれば、絶望しかなく、救いはどこにもない。
では、罪の存在でありつつ生きなければならない人間に希望はないのか?
そんなことはない。罪の存在でありながら、
その罪をそのまま赦し、なお、その罪を通して、希望を実現することのできる御方がいる。
神は愛である。
神は、人を見捨てない。
神は、人の罪さえも用いて、神の愛と神の義を実現することのできる御方である。

この罪を知りつつ、罪を赦すことのできる方は誰か。
それは、罪のない御方、イエスキリストしかおられない。
エス様は、けっして私の罪を責めることをされなかった。

  この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。 マタイ1:21

エス様がこのような罪人を無条件で赦して下さることを知った。
その時、わたしは、神の大きな憐れみに、アパートで一人号泣した。
エス様の無限の愛、罪人の私を決して責めることのない愛、

そして、私は、悟らされた。
天職とは、主ご自身そのもの。

私が長く、苦しみ求めていた己の天職とは主ご自身であった。主ご自身に仕えることこそ、人の天職であると悟らされた。感謝なことです。