主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

さて、イエスに触っていただこうとして、人々は子供達を、御許に連れてきた。マルコ10章13節

エスに触れていただくために。              マルコ10章13節。

主の臨在に触れたいと願い、主に御側に少しでも近づこうとする時、主の方からも、私たちに目を留めてくださり、御声をかけてくださる。恐れず、私の側に来なさいと言われる。
主は、私の側に近づき、私の頭の上に手を置き、祝福をされる。御国の支配があなたの上に今日も明日もとこしえまでもあるようにと。
礼拝において、主の臨在を慕い求める心を大切にしたい。
主に近づくことを妨げるものはなんなのか。思い患いか、隠された罪か。主の十字架を思い、主の流された血潮によって、私たちの罪過を洗い清めていただく。
エス様の血潮によって罪咎が全く赦されていることを信じて幼子のような素直な心をもって真心から主に近づいて行くとき、主の臨在に触れる。
礼拝讃美歌65番に『主イエスのみまえにおのれをさばきて、御霊の交わり、げにさちなるかな』。『主の御前、我らの心は照らされ、恵まる』。とある。主の平和
2018.11.11 茅ヶ崎集会メッセージ要旨

罪の罰の身代わりの死

エス様の十字架の死は、二つの意味が含まれています。一つは、罪のない人として十字架で死んでくださった。もう一つは、罪のある人として十字架で死んでくださったことです。一見、正反対のことのようで、この二つは同時に成立しないようにも思えますが、
普通、『イエスは、私たちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた』ローマ4:25罪のために死なれたというときには、この二つの死を同時に私たちは、受け止めています。
十字架上のイエス様は、①私たちの罪の身代わりであり、さらに②罪の罰の身代わりの死と言うことができます。
 
 私たちの集会では、十字架の死に至るまで神に従順に従われたイエス様を覚えることが多いと思いますが、今日はイエス様が罪の罰の身代わりとなってくださったことを中心にお話しします。
    罪の身代わりの死とは、罪のないままの人として罪の生け贄として、罪ある人間の身代わりとなって下さったということです。『罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです』Ⅱコリント5:21
ここに記されているイエス様の姿は、全く罪のない御方として、父なる神様は、十字架の上のイエス様を見つめているということです。
父なる神様の目には、罪のない完全なあがないの小羊としてのイエス様の傷ついた姿が映っています。
私たちも、罪のない方が十字架にかかって下さったので、神は、このイエス様を見て、完全に満足されていることを知って、安心を得るのです。
つまり、神の義であるキリストの贖いを信じるのです。
   
罪の罰の身代わりの死とは、罪人として、神のさばきを引き受けて下さったということです。
人は、罪によって様々な過ちを犯したゆえに、一つ一つの犯した過ちに対する神のさばきを受けなければならない立場にあります。しかし、神の裁きを直接、それぞれの人が引き受けたとすれば、誰一人、神のさばきを免れられる者はなく、みな、滅びてしまわなければなりません。
そこで、神様は、人を罰する代わりに、イエス様を罪人とみなして、イエス様を十字架の上で罪の罰を受けさせたのです。これが、罪の罰の身代わりの死です。
ここでは、父なる神様は、十字架の上のイエス様を罪人として見つめています。そして、イエス様を罪人として裁かれたのです。人の罪をその身に負わせられた。
イザヤ536『そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた』
53:11『わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った』
父なる神の立場からすれば、罪を負わせたのであり、イエス様ご自身の立場からすれば、主自ら罪を負ったのです。

なぜ、罪の罰を引き受けて下さったことについても私たちは知る必要があるのでしょうか?
エス様を信じてからも、天国に入るとき、罪は赦されても、神様は、自分が犯した数々の過ちについては、裁かれるのではないかと不安に陥ったり、神様はまだ私のことを怒っているのではないかと、神の怒りへの不安から、十分に心が解放されていない方もいるのではないでしょうか。
ヨハネ3章18節に『御子を信じる者は裁かれない』とあります。神のさばきは、十字架の上の御子に降ったのであり、それゆえ、神のさばきは終わったのです。
 
 
マルコ14章から15章にかけて、イエス様が最高議会で有罪判決を受けたこと。また、人殺しのバラバの身代わりとして十字架につけられるために引き渡されたことが記されています。
これは、まさに、罪なき人が罪とされ、罪人の罪の罰を身代わりに引き受けられた姿が記されています。
 
2018.10.30 茅ヶ崎集会 2019.9.28 片瀬山
 

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。コリント12章31節

あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。ヨハネ福音書13章34節

愛の賛歌と言われるコリント13章は、この12章31節からはじまります。

結婚式の司式を始めてからもう15年以上も経ちます。式の度ごとにこのコリント12章の最後の節から、13章にか
けての愛についての御言葉をいつも朗読させていただいています。
私は、イエス様からの愛と許しが家庭生活の基本に流れていることが大切であることをいつもお話しします。
これから結婚の誓約をする新郎新婦に向けて、また、同席している会衆全体に向けて、主のメッセージとして語ります。

しかし、家庭生活にイエス様の愛と赦しに一番欠けていて、一番必要としているのは、いつもこの私自身であることを痛感します。語っている者が、語っている内容に一番ふさわしくない生活をしているのです。結婚式の中で語る、イエス様の愛の姿を、私たち夫婦の現実の姿を見比べるとなんとほど遠いのだろうかと、恥かしく思います。
わたしは、ふさわしくない者ですが、『互いに愛し合うこと』は家庭生活、いや人間の社会で一番大切であることを信じているので、常々、語り続けさせていただいています。
『互いに愛し合うこと』の大切さは、仲のの悪い夫婦であっても、離婚寸前の夫婦であっても、その価値に変わりは無いのです。
『互いに愛し合う』という、イエス様の戒めがあるからこそ、人は、憎しみや混乱の仲にあっても、『互いに愛し合う』という道に立ち返ることができるのだと思います。道を失うときにも、道しるべがあれば、もう一度道に戻ることができます。
人の愛には限界があります。人の愛は枯渇します。しかし、神の愛は賜物であるならば、私たちには希望があります。
12章31節は、愛とは賜物であると言っています。神様からのプレゼントであり、それは受け取ることによって、初めて得ることのできるものだとっています。そして、愛という賜物を受け取ることが最高の道だと、紹介をしてから、愛が無ければ空しいこと、そして、愛の実質についてパウロは語り始めます。見方を変えれば、愛は賜物ゆえに、愛せないと悩むのではなく、愛を下さいと祈り求めれば、神様は与えて下さるものであるということです。
ここに希望があると思います。

神様は、愛の方であり、人が愛し合うことを望まれ、愛し合う姿を喜ばれます。人が愛に欠けるとき、どうして愛の神様が、愛という賜物を下さらないことがあるでしょうか。

わたしは、愛は憎しみに勝ることを信じています。
神様の愛は、人を互いに結びつけるのにふさわしい完全な帯となれることを信じています。
夫婦や家族がばらばらになりそうな時でも、神の愛の帯は、家族全体を結び合わせ、一つにまとめる力があると信じます。ですから、神の愛の賜物が与えられること切に祈り求めます。
パウロは、あなたがたに最高の道を教えますと語ったとき、愛は与えられる賜物であり、愛が賜物として与えられることによって、人は愛する力を得ることができるのだと教えられた気がします。

主よ、今日も愛する力を赦す力を与えて下さい。

悲しみのあまり死ぬほどです。マルコ14章34節

悲しみの人で病を知っていた。イザヤ書53章3節

エス様の姿につまずいた私。
私ははじめゲッセマネの園でのイエス様の姿を祈りの言葉がなかなか受け止められませんでした。
十字架の死を覚悟して、エルサレムへ向かったイエス様の毅然した姿は一体どこへいってしまったのか?この態度のギャップをどう受け止めたらいいのか?なぜ、主はかくも恐れ、もだえ、なにゆえに悲しまれているのか?わからなかった。

クリスチャンは死を恐れない?
黙想するうちに教えられたことは、日本人特有の死に対する死生観、死の美学という作られたイメージが、悲しまれるイエス様の姿を見ることを妨げているのかもしれないということ。
殉教者は死を恐れなかったではないか?武士は、死を恐れるのは、往生際が悪い、女々しいと死を恐れる者を蔑視したのではないか?殉教者とは信仰を貫くために死をも恐れないというイメージがあり、死に強く立ち向かう者というイメージをイエス様にも投影しようとしていたのではないか?

しかし、果たして、殉教者は死を恐れなかったのか?明日、競技場でライオンの餌食になる親子がいたとしたら、死を恐れずにおれたであろうか?明日、村の役人が、踏み絵を踏ませることを聞いた村人たちが、踏み絵の前に、葛藤しなかったのであろうか?いや、もっと身近で、今生きているクリスチャンが、病で死の宣告を受けたとしたら、死を前にして、深く、恐れ、もだえることなしに、平然と死を迎えられるのであろうか?

一見、弱々しく、女々しくイエス様の姿に失望を感じたとしても、その弱々しさと女々しさこそ、人のもつ弱さそのものを体現してくれている人としてのイエス様なのではないでしょうか。

もう一つ、イエス様が悲しまれたことについて。
人にとっての一番の悲しみとは何でしょうか?それは、別離ではないでしょうか。悲しみとは、愛する対象から引き離されてしまうこと。愛する人から引き離されてしまう、もう会えなくなってしまうことほど、人にとって悲しいことはないのではないでしょうか。恋人との別れも人に悲しみの感情を湧き上がらせます。

エス様は人にとってもっとも深い感情の一つとも言える悲しみを神との関係の中で、人の代表として、味わい尽くして下さったと言えるのではないでしょうか?
父なる神との永遠の別離という死もだえするほどの悲しみ、その痛みは、私には、想像も付きません。

悲しみの中での支え
エス様が人としてこの悲しみの情を体験して下さったゆえに、私たちは悲しみの中にあるとき、私の悲しみをイエス様の上に置くことができるし、同時にほかの人には理解できなくても、イエス様が悲しみの情を共感して下さる所に、私たちは心の支えを得るのではないでしょうか。

そこに御心があるならば

そして、私たちはどのようにして悲しみを乗り越えることができるのでしょうか?
エス様は36節の祈りの前半と後半では、祈りの中身が全く違います。
エス様は、祈りの後半の冒頭で『しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさって下さい』と祈られました。
避けることのできない杯、すなわち十字架を負うということが避けられないとしたら、十字架を負うという杯の中に神の御心があることを信じることが、イエス様とって悲しみを乗り越える力だったのではないでしょうか。
悲しみの出来事の中に神の御心を信じることができたとき、わたしたちも悲しみを乗り越えて前に向かって進む力を得ることができるようになる気がします。

立ちなさい。さあ、行くのです。マルコ14章42節


2018.9.22,23 片瀬山集会、茅ヶ崎集会。


使徒信条

十字架と聖霊ハト画像使徒信条
わたしは、天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信じます。
わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから 生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。
そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審(さば)かれます。
わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠(えいえん)のいのちを信じます。
アーメン





いのちの御霊の原理

神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。                    ローマ8章29節
所感
なぜ、8章を語ったのだろうか。8月の講習会から、心に感じること、語られていることは、
それは、私の心がやはりひどく責められていて、自信を失いかけているなか、心を弱くしてはならないこと。
集会の奉仕が増えたことは、相当の霊的な準備の負担を増している。それは、サタンの攻撃もより一層激しくなることにもなる。
毎日の仕事と、子守と家事、育児で精一杯の上、御言葉の準備のために霊的な時間を備えていくことは、
牧師のように、すべての時間を祈りと御言葉に専心できるわけでもなく、かなりの負担がある。
牧師のメッセージから、御言葉を根拠として、私を責め立て、自信を信仰を失わせようとする、サタンの攻撃を退けていくために、私自身に身言葉の励ましの言葉がとても必要であること。
『ああ、私は枯れ木に過ぎない』と言ってはならない。とイザヤ書から宦官に向けた、主の言葉に励まされ、
御言葉によって、自分自身を支えることが必要であることを、いや必要としていること。それは、今も同じ。

そんな中で、ローマ書8章の聖句の聖句を幾度も心に刻み込みたいと励まされたいと思い、自分のために、この8章を語らせていただいた。
幸いなことに、賜物として御霊をいただいている私たちには、永遠の命だけでなく、御霊自らのとりなしの祈りを日々いただいている。死に打ち勝たれたイエス様のとりなしがあることを知っていることはなんと心強められることか。
しかし、私たちは、私たちを愛して下さった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者になるのです。8章37節
2018.9.9 茅ヶ崎

そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。使徒2章38節

教会の始まり

兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。2章37節


ペテロの説教を聞き、待望していたメシヤを自分たちの手で十字架につけて殺してしまったことを知り、どんな神の裁きが自分たちの身に降りかかってくることかとユダヤ人たちの驚愕は大変なものでした。
以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生き延びることができる。申命記4:42

申命記4:42に、知らずに殺してしまった殺人について、生き延びることのできる逃れの町の存在が記されています。私たちは、旧約の律法には赦しがないように思いがちですが、ここに憐れみ深い神の律法の姿があります。
エス様は十字架の上で、『自分が何をしているのか知らないのです』と祈りました。
自分を殺した相手を知らないでしたことだからと赦して下さるイエス様の愛はどれだけ深いのでしょうか。

ペンテコステは、教会の始まりです。
旧約の民もメシヤを待望する信仰により救われますが、新約の民はさらに聖霊の内住の恵みを受けました。
それゆえ天国の喜びを今、味わうことができます。この恵みの約束は、主が召して下さったものに与えられる特権であり、召された者たちは、教会、キリストの花嫁と呼ばれる地位を得ました。
教会の民となる資格と、歩みについて簡潔に記されています。
1:悔い改めること
2:イエスキリストの名によって洗礼を受けること
3:賜物として聖霊を受けること
4:生き方を変えること

教会生活についても簡潔に記されています。
1:使徒たちの教えを学び、守ること
2:互いに交わりを持つこと。集会に参加する
3:イエス様の愛を覚えること
4:祈りをすること
ペテロの説教の内容はいたってシンプルで、イエス様の出来事を旧約聖書の預言に基づいて、淡々と語り明かすものでした。このシンプルな説教によって、多くの人々は心打たれ、救いと導かれました。
現代の教会の説教は、難しくなりすぎていたり、また自己啓発セミナーであるかのように、聴衆の自己満足を満たすためのような生活への適用が多く語られてしまう傾向はないでしょうか?十字架の言葉は、シンプル過ぎて、知恵のある人々には、愚かに聞こえてしまうのは、今の時代も同じなのでないでしょうか?
聖書は、『ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、』とあり、ペテロの説教の豊かさにもまた。言及しています。それは、おそらく、イエス様の教えに関することではなかったと思います。聖霊使徒たちに臨んだことにより、使徒たちに弟子の舌が与えられ、説教を通して教会が始まったことを知る時、説教の重要性についてあらためて心に深く留めたいと思います。


2018.8.26 茅ヶ崎集会メッセージ要約