結婚式の司式を始めてからもう15年以上も経ちます。式の度ごとにこのコリント12章の最後の節から、13章にか
けての愛についての御言葉をいつも朗読させていただいています。
私は、イエス様からの愛と許しが家庭生活の基本に流れていることが大切であることをいつもお話しします。
これから結婚の誓約をする新郎新婦に向けて、また、同席している会衆全体に向けて、主のメッセージとして語ります。
しかし、家庭生活にイエス様の愛と赦しに一番欠けていて、一番必要としているのは、いつもこの私自身であることを痛感します。語っている者が、語っている内容に一番ふさわしくない生活をしているのです。結婚式の中で語る、イエス様の愛の姿を、私たち夫婦の現実の姿を見比べるとなんとほど遠いのだろうかと、恥かしく思います。
わたしは、ふさわしくない者ですが、『互いに愛し合うこと』は家庭生活、いや人間の社会で一番大切であることを信じているので、常々、語り続けさせていただいています。
『互いに愛し合うこと』の大切さは、仲のの悪い夫婦であっても、離婚寸前の夫婦であっても、その価値に変わりは無いのです。
『互いに愛し合う』という、イエス様の戒めがあるからこそ、人は、憎しみや混乱の仲にあっても、『互いに愛し合う』という道に立ち返ることができるのだと思います。道を失うときにも、道しるべがあれば、もう一度道に戻ることができます。
人の愛には限界があります。人の愛は枯渇します。しかし、神の愛は賜物であるならば、私たちには希望があります。
12章31節は、愛とは賜物であると言っています。神様からのプレゼントであり、それは受け取ることによって、初めて得ることのできるものだとっています。そして、愛という賜物を受け取ることが最高の道だと、紹介をしてから、愛が無ければ空しいこと、そして、愛の実質についてパウロは語り始めます。見方を変えれば、愛は賜物ゆえに、愛せないと悩むのではなく、愛を下さいと祈り求めれば、神様は与えて下さるものであるということです。
ここに希望があると思います。
神様は、愛の方であり、人が愛し合うことを望まれ、愛し合う姿を喜ばれます。人が愛に欠けるとき、どうして愛の神様が、愛という賜物を下さらないことがあるでしょうか。
わたしは、愛は憎しみに勝ることを信じています。
神様の愛は、人を互いに結びつけるのにふさわしい完全な帯となれることを信じています。
夫婦や家族がばらばらになりそうな時でも、神の愛の帯は、家族全体を結び合わせ、一つにまとめる力があると信じます。ですから、神の愛の賜物が与えられること切に祈り求めます。
パウロは、あなたがたに最高の道を教えますと語ったとき、愛は与えられる賜物であり、愛が賜物として与えられることによって、人は愛する力を得ることができるのだと教えられた気がします。
主よ、今日も愛する力を赦す力を与えて下さい。