イエス様の十字架の死は、二つの意味が含まれています。一つは、罪のない人として十字架で死んでくださった。もう一つは、罪のある人として十字架で死んでくださったことです。一見、正反対のことのようで、この二つは同時に成立しないようにも思えますが、
普通、『イエスは、私たちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた』ローマ4:25と罪のために死なれたというときには、この二つの死を同時に私たちは、受け止めています。
十字架上のイエス様は、①私たちの罪の身代わりであり、さらに②罪の罰の身代わりの死と言うことができます。
① 罪の身代わりの死とは、罪のないままの人として罪の生け贄として、罪ある人間の身代わりとなって下さったということです。『罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです』Ⅱコリント5:21
父なる神様の目には、罪のない完全なあがないの小羊としてのイエス様の傷ついた姿が映っています。
私たちも、罪のない方が十字架にかかって下さったので、神は、このイエス様を見て、完全に満足されていることを知って、安心を得るのです。
つまり、神の義であるキリストの贖いを信じるのです。
②
罪の罰の身代わりの死とは、罪人として、神のさばきを引き受けて下さったということです。
人は、罪によって様々な過ちを犯したゆえに、一つ一つの犯した過ちに対する神のさばきを受けなければならない立場にあります。しかし、神の裁きを直接、それぞれの人が引き受けたとすれば、誰一人、神のさばきを免れられる者はなく、みな、滅びてしまわなければなりません。
イザヤ53:6『そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた』
53:11『わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った』
父なる神の立場からすれば、罪を負わせたのであり、イエス様ご自身の立場からすれば、主自ら罪を負ったのです。
なぜ、罪の罰を引き受けて下さったことについても私たちは知る必要があるのでしょうか?
イエス様を信じてからも、天国に入るとき、罪は赦されても、神様は、自分が犯した数々の過ちについては、裁かれるのではないかと不安に陥ったり、神様はまだ私のことを怒っているのではないかと、神の怒りへの不安から、十分に心が解放されていない方もいるのではないでしょうか。
ヨハネ3章18節に『御子を信じる者は裁かれない』とあります。神のさばきは、十字架の上の御子に降ったのであり、それゆえ、神のさばきは終わったのです。
マルコ14章から15章にかけて、イエス様が最高議会で有罪判決を受けたこと。また、人殺しのバラバの身代わりとして十字架につけられるために引き渡されたことが記されています。
これは、まさに、罪なき人が罪とされ、罪人の罪の罰を身代わりに引き受けられた姿が記されています。
2018.10.30 茅ヶ崎集会 2019.9.28 片瀬山