主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

悲しみのあまり死ぬほどです。マルコ14章34節

悲しみの人で病を知っていた。イザヤ書53章3節

エス様の姿につまずいた私。
私ははじめゲッセマネの園でのイエス様の姿を祈りの言葉がなかなか受け止められませんでした。
十字架の死を覚悟して、エルサレムへ向かったイエス様の毅然した姿は一体どこへいってしまったのか?この態度のギャップをどう受け止めたらいいのか?なぜ、主はかくも恐れ、もだえ、なにゆえに悲しまれているのか?わからなかった。

クリスチャンは死を恐れない?
黙想するうちに教えられたことは、日本人特有の死に対する死生観、死の美学という作られたイメージが、悲しまれるイエス様の姿を見ることを妨げているのかもしれないということ。
殉教者は死を恐れなかったではないか?武士は、死を恐れるのは、往生際が悪い、女々しいと死を恐れる者を蔑視したのではないか?殉教者とは信仰を貫くために死をも恐れないというイメージがあり、死に強く立ち向かう者というイメージをイエス様にも投影しようとしていたのではないか?

しかし、果たして、殉教者は死を恐れなかったのか?明日、競技場でライオンの餌食になる親子がいたとしたら、死を恐れずにおれたであろうか?明日、村の役人が、踏み絵を踏ませることを聞いた村人たちが、踏み絵の前に、葛藤しなかったのであろうか?いや、もっと身近で、今生きているクリスチャンが、病で死の宣告を受けたとしたら、死を前にして、深く、恐れ、もだえることなしに、平然と死を迎えられるのであろうか?

一見、弱々しく、女々しくイエス様の姿に失望を感じたとしても、その弱々しさと女々しさこそ、人のもつ弱さそのものを体現してくれている人としてのイエス様なのではないでしょうか。

もう一つ、イエス様が悲しまれたことについて。
人にとっての一番の悲しみとは何でしょうか?それは、別離ではないでしょうか。悲しみとは、愛する対象から引き離されてしまうこと。愛する人から引き離されてしまう、もう会えなくなってしまうことほど、人にとって悲しいことはないのではないでしょうか。恋人との別れも人に悲しみの感情を湧き上がらせます。

エス様は人にとってもっとも深い感情の一つとも言える悲しみを神との関係の中で、人の代表として、味わい尽くして下さったと言えるのではないでしょうか?
父なる神との永遠の別離という死もだえするほどの悲しみ、その痛みは、私には、想像も付きません。

悲しみの中での支え
エス様が人としてこの悲しみの情を体験して下さったゆえに、私たちは悲しみの中にあるとき、私の悲しみをイエス様の上に置くことができるし、同時にほかの人には理解できなくても、イエス様が悲しみの情を共感して下さる所に、私たちは心の支えを得るのではないでしょうか。

そこに御心があるならば

そして、私たちはどのようにして悲しみを乗り越えることができるのでしょうか?
エス様は36節の祈りの前半と後半では、祈りの中身が全く違います。
エス様は、祈りの後半の冒頭で『しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさって下さい』と祈られました。
避けることのできない杯、すなわち十字架を負うということが避けられないとしたら、十字架を負うという杯の中に神の御心があることを信じることが、イエス様とって悲しみを乗り越える力だったのではないでしょうか。
悲しみの出来事の中に神の御心を信じることができたとき、わたしたちも悲しみを乗り越えて前に向かって進む力を得ることができるようになる気がします。

立ちなさい。さあ、行くのです。マルコ14章42節


2018.9.22,23 片瀬山集会、茅ヶ崎集会。