この「上られた。」という言葉は、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方ご自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの点よりも高く上られた方なのです。エペソ人への手紙4章9,10節
イエス様に救われる前、わたしの霊は黄泉の世界の暗闇の中に沈んでいました。
いつからでしょうか。それは、ノアの時代に洪水によって滅ぼされてしまった人々と共に黄泉の世界に沈んでいました。ノアは義人だったので、ノアの洪水の時代においても神の裁きを免れ救われましたが、私は罪人であったために、滅びの中にいました。
ただ唯一の救いは私の霊は天地創造の際に、救いの選びの中に入れられていたために、
黄泉の暗闇の世界に閉じ込められていた時も、神は私の霊を覚えていて下さり、
救いに定めていて下さったことです。
私の霊はただ救いの日を黄泉の世界で待っていなければならなかったのです。
神より遣わされた救い主であるイエス様は、
まずご自身の肉体において、人の罪を負うて下さり、
肉において神のさばきを引き受け、十字架において死を味あわれました。
イエス様が死を味あわれたことにより、
罪もイエス様の死とともに消滅し、私は罪の縄目から解放されました。
罪の奴隷である必要はなくなりました。
しかし、その時、私の霊は黄泉の暗闇の中に沈んだままでした。
イエス様は十字架の上で死に、肉体の衣を脱ぎ捨てた後に、
直ちに間髪を入れず、霊において黄泉に下られました。
汚れの全くない義人であられるイエス様の霊が、暗闇と汚れのある黄泉の世界にまで下られたとはなんと恐れ多いことでしょうか。なんという遜りでしょうか。
黄泉において、イエス様は、あらかじめ救いに選ばれていた人の霊に
御言葉を与え、黄泉の中で死んでいた選ばれていた人々の霊をよみがえらせました。
これはすべての霊をよみがえらせたのではなく、神の救いの選びの中にいた霊を呼び集められたのです。
参照聖句
『すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストうのうちに選び、
御前で清く、傷のない者にしようとされました。』エペソ1章4節
『主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された」
詩篇107篇20節
神の言葉には力があり、死人をよみがえらせる力があります。
ですから、イエス様は黄泉においても御言葉を宣べ伝える必要がありました。
参照聖句
『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます』へブル4章12節
私の霊もこの時に、イエス様の声を聴き、目覚めることができました。これは恵みによります。神様がイエス様を黄泉にまで遣わし、死んでいた私の霊を呼び覚ましてくださったのであって、私は死んでいたものであって、何の功積もありませんでした。
私の霊は憐みの内に目覚めることができました。
イエス様ご自身、義人の霊であるので、黄泉に捨て置かれることなどあり得ませんでしたが、幸いなことに、イエス様が黄泉の世界より引き上げられる際に、
神の選びによってあらかじめ定められていた私たちの霊も一緒に引き上げて下さったのです。
それゆえ、私たちもイエス様と共に生きる者とされました。
神は定められた救いの時に、黄泉の暗闇の中で死んでいた人の霊をよみがえらせ、キリストの復活と共に、黄泉の世界から引き揚げて下さり、生きる霊として下さいました。
神様がイエス様を通して、私たちをお救い下さったのは、目的があります。
救われた一人ひとりが、この地上生活において、神のために生きるためです。
それゆえ、神は、あらかじめ選ばれていた人々が神のために働くために必要な賜物も一人ひとりに与えて下さいました。
私もやがて死にますが、私の霊はもうイエス様の霊と共にいます。
ですから、死んだ後、私の霊はイエス様と共にパラダイスにいます。
もう黄泉の闇の中に沈むことはありません。イエス様と共に神の国で永遠に住み、神の光の中に憩うことが許されています。
参照聖句
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりになったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれた霊たちのところに行ってみことばを宣べ伝えられたのです。」第一ペテロ3章18、19節