主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

私たちはどこから救い出されたのか?

私たちはどこから救い出されたのか?

まず、人に対する理解の大前提として、人は霊であり、霊の上に物質の肉体を着せられています。心も肉体に入ります。霊(魂)と心と肉体からなっています。

1:私たちの救いとは、人の霊の救いです。

2:私たちは救われる前は、すなわち、イエス様を信じる前は、罪過と罪の中に死んでいた者であり、
不従順の子らの中に働いている霊に従っていました。
つまり、悪霊の支配下にあり、悪霊に捕われていたのです。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました。エペソ2章1,2節

3:私たちの救いとは悪霊に捕われていた魂が救われること、それは、悪魔の支配の下で悪魔の奴隷となっていた魂が神の支配の下に移されることです。
神は、私たちを暗闇の圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。コロサイ1章13節

4:将来においてさばかれないというこも救いですが、時間的な水平面だけでなく、垂直的に悪魔の支配から神の支配に移されることこそ救われることの本質です。すくいは垂直的なものです。
クリスチャンの中にあっても、イエス様を信じていても、自分が一体どこから救われたかを知らない方も多いのではないでしょうか。
字違いますが、金魚すくい、ドジョウすくいのイメージはわかりやすいと思います。泥の中から、ざるで掬い上げられる。汚れた迷いの霊の世界、死の恐怖の奴隷の世界から、清い聖霊の世界に救い揚げて下さった方がイエス様です。
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。ヘブル2章15節

5:上記のみことばを把握した上で、エペソ書4章8節から9節を理解することができます。
エス様が救いの御業を十字架上で完成されてから、霊において捕われていた私の魂を救うために、解放するといったほうがいいかもしれません、悪魔の支配する霊界(よみ)にまで降り、引き上げて下さり、すなわち、キリストの復活と共に死んでいた私たちの霊もよみがえり、キリストが天に引き上げられたように、キリストと共に天にまで引き上げられ、キリストと共に神の子としての身分を与えられ、さらに神の子として生きるために、教会(キリストのからだ)の働きに従事するための賜物を分け与えて下さったのです。
そこで、こう言われています。「高いところに上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」 この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上げられた方なのです。エペソ4章8,9節
6:このことを知って1ペテロ3:18から20節を理解できます。
旧約聖書の出来事はすべて新約時代の予表です。
第一ペテロ3章19節は、生きている間に福音を信じなかった人が死後に再び救われるがチャンスあると言っているわけではありません。
悪霊捕われていた私たちの霊救うために、十字架で罪の購いを成し遂げられた後、地低いところ(悪霊の支配下)にまで降りて下さって救われる私たちの霊を引き上げて下さったのです。
20節に記されていることは、ノアの時代にしたがなかった霊のところに行き宣教しましたが、その結果救われたのは、ノアの家族だけだったということがのべられています。イエス様が命じられた福音宣教の命令は、「信じてバプテスマを受ける者は救われます。信じない者は罪に定められます」マルコ16章16節と信じる者と信じない者の両者に対する約束が同時並行で語られています。
従わなかった霊に対しては、滅びの宣告となり、信じた人の霊に対しては救いの宣告となったことが第一ペテロ3章19,20節の意味です。
私たちもかつては悪霊の支配下に閉じ込められていましたが、あらかじめ救いに定められていたゆえに、宣教の言葉によって救いあげられたのです。何と驚くべき感謝なことでしょうか。

あなたがたが救われたのはただ恵みによるのです。キリストイエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。エペソ2章5,6節


茅ヶ崎集会 2018.4.8