歳を重ねていくと、若い時とは違うまた別の肉の欲が現れてくると思う。前頭葉が弱くなり、理性が利かなくなりやすくなり、言わば節制、節度がなくなる。わきまえが利かなくなりやすくなるようだ。おしゃべりが止まらない。心配性がひどくなる。他人を裁いてばかりいる。自慢話がつきない。細かなことにこだわりが強くなる。嫉妬してばかりいる。好色が増してくる。財産へのこだわりが強くなる。死への恐怖も増してくる。様々な年よりの醜さが出てきます。
『あなたがたの死ぬべきからだをも生かして下さる』という御言葉の意味を、
死んだ後の体の復活の約束のことだと理解していたところがあったが、
今日、あらためて教えられたことは新しい発見であった。
知っていたことかもしれないが、魂が気づいていなかった。
イエス様を信じたことにより、御霊が私たちの霊をよみがえらせ、さらに私たちの霊と共に御霊も私たちの内に住んでいて下さっているということを前提にパウロは話を進めている。
9節はあなたがたの霊は御霊の中にいること。
10節はまず、私たちの霊の立ち位置について語る。私たちの霊はイエス様の復活の命ゆえに、生きるものとなっていることを教える。そして、イエス様の義によって、私たちの霊は義とされているため、もう決して裁かれることなく生きるものとされたことを語る。
しかし、肉体については罪によって神の御用のためには役に立たなくなってしまっていたことを確認させている。
11節、しかし、11節において、『罪によって死んでいるからだ』の立ち位置について、
10節とは真逆に聞こえるような真理を明示している。
実は、あなた方の霊をよみがえらせた御霊の働きは罪によって死んで神の役に立たなくなっていた肉体にも影響を及ぼし、『死ぬべき体』をも生かして神に役立つ性質のものへと変えて下さるということを明らかにしている。
この御言葉は将来の肉体の復活のことを言っているのではないのだ。
今を生きるクリスチャンの体について言っているのだ。
御霊を頂く前は、世の霊が直に肉体(心を含む)に働き、世の霊の支配され、肉体は世の霊の思うままに従わされていた。
しかし、イエス様を信じ、御霊が内に住まわれたので、御霊はいのちであるので、
御霊のいのちは、肉体に働き、私たちの肉体は世の霊にしたがわなくてもよくなり、神の御用のために肉体を用いることが可能になったことを教えているのだ。
朝が来るごとに、神の御前に行き、私の内におられる御霊が肉体(心、思い、感情)に命の力を及ぼし、肉体をも支配していただくように黙想する。
私たちはすでに罪と死の原理からは解放されているので、代わりにいのちの御霊の原理が体全体にさらに生活全体に広がって満たされていること日々信じていけば、その通りになっていく。
外からは絶えず、肉体に罪を犯させようとする誘惑にさらされているが、
内からはいのちの御霊によって神の僕として生きる力が与えられ、常に罪の力を消し去って下さいます。
アルコール依存症も、薬物依存症も、ギャンブル依存症も、セックス依存症などもみな肉体に働くもので、人の努力によっては取り除くことは困難です。
しかし、もしこれらの依存症から解放されたいと願う人が、イエスキリストを信じるならば、魂の内側に御霊が住まわれ、人の本来の霊が生きるようになり、肉体の内側から新しい命の力が働き始め、今ままで捕らわれていた依存症から解放されるようになります。
神には死ぬべきからだをも生かす力があるのです。
神は、罪に苦しむ人を救うためにイエス・キリストをこの世に送って下さいました。
イエス・キリストを信じれば人は罪の力から解放されるのです。
2023.4.22 片瀬山集会,
4.30 茅ヶ崎集会