主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため。彼の代わりに受け入れられるためである。レビ記1章4節

レビ記に記されているいけにえと主の十字架。

1:罪過のためのいけにえ:5章

  生まれたのちに犯した数々の罪と罪過のきよめのために

  御自身を捧げられたキリストの姿。

  一人ひとりの罪人として十字架にかかられた。

2:罪のためのいけに:4章

  人が生まれる前より内包する原罪のきよめのために

  ご自身を捧げられたキリストの姿。

  すべての罪人の代表として十字架にかかられた。

3:和解のためのいけにえ:3章。

  罪ゆるされた罪人が神と和解し、

  神の御前でキリストを喜び楽しむためにご自身を捧げられたキリストの姿。

  和解のいけにえゆえに、私たちは神と生きた交わりを楽しむことができる。

  神であり人である方として十字架にかかられた

4:穀物のささげもの。2章

  イエスキリストの生涯の中に示される罪なき完全な人としてご自身を捧げられた

  キリストの姿。

  神はイエス様の真の人としての歩みを見て満足された。

  罪の無き人として十字架にかかられた。

5:全焼のいけにえ:1章

  十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われ、

  神ご自身のためにいのちを捧げられたイエスキリスト。

  神はイエス様の十字架の死に至るまで従順であられたイエス様の信仰を見て

  満足された。

  神の子として十字架にかかられた。

 

わたしは、C.H.M著のレビ記講義から、レビ記の1章から5章に記されているいけにえについて、学んだ時、イエス様の十字架の贖いの意味についてより深く知ることができ、心に平安を覚えることができました。

特に1章にある全焼のいけにえに関する真理は、今まで疑問に思っていた十字架に対する理解をはっきりさせることができました。

 私たちが良く聞く福音メッセージの内容は、5章にある「罪過のためのいけにえ」としてのイエス様の十字架か、4章にある「罪のためのいけにえ」としてのイエス様の十字架ではないかと思います。私たちの罪のために死なれ、それによって私たちの罪は赦されたということ。十字架の上で神のさばきを引き受けて下さったのだと。

しかし、全焼のいけにえは、罪を負い、神の怒りを忍ぶということが目的ではなく、十字架の死によって表明された自発的な全き献身ということが目的にされています。

 

キリストが人の姿を取り、この地上に来てくださった第一の目的は、ご自身の人としての歩みの全てのおいて一点の汚れもなく、父なる神様にご自身を捧げることにありました。

全焼のいけにえとは正にすべてを焼き尽くして神に捧げるいけにえでした。

全焼のいけにえは、十字架の上で、神のみこころを成就されたキリストを表しています。

エス様はマリアとヨセフの子としてお育ちになり、ガリラヤからエルサレムに至るまで各地を伝道して歩まれました。その生涯は麗しく、その言葉と行いと信仰の全てにおいて神様の心を満足される歩みでした。そして短い生涯の最後に十字架にかかられましたが、この十字架はご自身を父なる神様に完全に捧げつくした頂点となりました。

十字架の死に至るまで父なる神様に従われたイエス様の信仰を見て、父なる神は満足されました。

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、

実に十字架の死に至るまでも従われたのです。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。ピリピ2章8,9節

(主へのなだめのかおりによるささげものである)9節にありますが、なだめるとは、満たされる、満足を覚えるという意味でもあります。怒りをなだめる、罪に対して寛大な措置をとるときなどに”なだめる”という語を用いますが、怒りがおさまるのは、怒り以上に心を喜ばせるなにか代わりのものを得るからではないでしょうか。

 

父なる神様は、十字架につけられたイエス様を見て、神の胸が張り裂けるような悲しみも抱かれたでしょうが、同時にイエス様の死に至るまでの従順なお姿を見て満足を覚えられたのです。それゆえ、父なる神はイエス様を死に捨てておかず、死よりよみがえらせ、さらにキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのです。

ですから、私たちは十字架にかかられたイエス様を見て、満足します。

そこには、神の義を全うされた人の姿があるからです。

父なる神様は、イエス様への限り無い愛ゆえに、

十字架にかけられたイエス様こそ神の義を全うされた方であると信じるすべての者を義と認めて下さるという新しい約束を下さいました。

(イエス様だけが神の義を満たす御方ですが、イエス様が神の義であると信じる者、

また同時に父なる神様はイエス様を義とされたと信じる者に対して、

人は神の律法を守れないがゆえに神の義とはなりえないにも関わらず、イエス様を神の義と信じる信仰のゆえに、私たちの上にも神の義があると承認して下さるということです)

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの捧げものとして、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今まで犯されてきた罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。

それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。ローマ3章25,26節

 

ウクライナで若い人々が国を守るために武器を取り、そしていのちを失っています。

愛する子の死を知った両親はどれだけ嘆き悲しむでしょうか。けれども、悲しむに終わらず、同時に子を誉めてあげるのではないでしょうか。自分の子を自慢するのではないでしょうか。

悲しみの中にあっても、戦友から"彼は勇敢に立派な人だったと認められる"

ことはどれだけ嬉しいことでしょうか。

しかし、このような悲惨な戦いが一日も早く止むことを祈ります。

 

エス様はご自身を信じる者が一人も滅びることなく、見捨てず、永遠のいのちを約束されています。

 

2022.4.30 片瀬山集会、大阪集会、茅ヶ崎集会