イエスは、みなの者に言われた。
『だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです』ルカ9章23,24節
あらすじ:
イエス様はご自分が天に上げられる日が近づいていることを霊において示され、十字架刑を受けるためにエルサレムに向かった。
イエス様はご自身が多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを知っていた。
エルサレムに行くにはサマリヤを通過することが一番早かった。
イエス様はサマリヤ人への宣教と癒しのためにサマリヤに向かったのではなく、ただ通過するためであった。
イエス様が町に入ることに期待していたサマリヤ人であったが、
サマリヤ人はイエス様が自分たちの願いを満たすために立ち止まって下さらないことを知ると、急に態度を変え、イエス様を受け入れようとしなくなった。
あまりにも無礼な態度にヤコブ、ヨハネは憤慨し、『彼らを焼き滅ぼしましょうか』とサマリヤ人に対する怒りを露にした。
黙想:
イエス様が目的とするエルサレムに到達するという使命を全うするために、わき目も振らず、真っ直ぐにエルサレムへ向かう姿が目に浮かぶ。
自分の目的のためにイエス様を利用しようする心があるとき、私たちもイエス様の態度が非常に冷たいと感じてしまうことがあるのではないか。
イエス様の見つめている方向に同じように目を向ける時にはじめて、イエス様が成し遂げようとしていることを理解できる。
イエス様が十字架の苦しみに向かっているとき、
私たちの受けている苦しみを取り除いてほしいとイエス様に向かうのではなく、
自分の十字架を背負いつつ、イエス様の向かっている十字架の方に目を向ける事が出来る時、
不思議と私の十字架の苦しみをイエス様が負って下さっていることに気が付く。
たとえ苦しみの中にあっても自分もイエス様と共に歩んでいるという弟子としての喜びを味わうことになる。
十字架の後には必ず復活がある。
イエス様の十字架を見つめるということは十字架の先にある復活を見つめるということだ。
『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る』というイエス様の言葉を信じることだ。
世に勝つ者はだれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか。第一ヨハネ4章5節