主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。マタイ27章51節

黙想

「全焼のいけにえが、十字架の上で罪を負われたキリストを予表しているのではなく、十字架の上で神の御心を成就されたキリストを表していると、明確にしることができる。」P21 .

「全焼のいけにえは、十字架上で死なれたキリスト、しかも、私たちの罪のためののろいを受けられたいけにえとしてのキリストではなく、御父の心に比類なき芳香をささげるために死なれたキリストの型である」P22 .レビ記講義C.H.Mより。

 

父なる神様、あなたさまが十字架の上に釘付けにされているイエス様をどのように見ておられたのか、あなたのお気持ちを素直に表現されている箇所をあまり見る事ができません。

十字架の上で苦しまれているイエス様を喜んで見ておられたのでしょうか。

そのようなことは無かったと私は一人の父として思います。

 

父が子の苦しむ姿を見て喜ぶ者がいるでしょうか。子の傷ついた姿を見て、悲しまない者がいるでしょうか。

 

それとも、神は苦しまないのでしょうか。

十字架の上での御子の苦しみを父なる神様も同様に苦しまれたと思います。

御子が苦しまずに、人の罪の贖いがなされるならどれほど良かったことでしょうか。

 

愛する御子を父なる神が、その苦しみを知りつつ、さらに、御子を十字架の上で見捨てなければならなかった苦しみと悲しみと痛みはどれほどばかりであったことでしょうか。

心が張り裂けるような思い、、腸がちぎられるような思い、、、。

 

マタイ27章51節に、

「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と記されています。

これは単に至聖所への道が開かれたことの象徴ではなく、

父なる神様の心が張り裂けるような思いで、直に破れるはずのない神殿の幕を

実際に引き裂いたのではないでしょうか。

それほどまでに、父の心は引き裂かれたのだと。

 

主を超え行きし さばきの波

思い出つつ 愛を偲び

悲しみ混じる 喜びもて

われらは君を 覚えまつる 礼拝讃美歌144番

 

愛する御子がご自身の命を捨てるほか、

人の罪を取り除く道が無かったゆえに、

御子は自ら自発的に十字架の上で命をすてる覚悟をされました。

父なる神様は御子の自発的な心を十二分に知っていました。

それゆえ、御子が自ら十字架におかかりになることを許されました。

父なる神様の決断と御子の決心がここにあります。

 

十字架を通して成し遂げられる完全な贖いは父なる神様にとってのおおいなる喜びです。

しかし、そこには人には思い測りがたい父としての悲しみも含まれている。

 

父なる神様の悲しみと喜びが入り混じって一つになっているところが主の十字架ではないでしょうか。

 

罪人への愛ゆえに、十字架の上で苦しみ、息を引き取られるまで、御子を見守り続けていた父なる神様の愛、

罪人への愛ゆえに、自ら十字架の上で苦しむ道を選び取られた御子の愛、

私たちは、御父と御子の愛の前に、ただただひれ伏すしかありません。

 

父なる神様は御子が死に至るまで従順に父なる神様に従われたすぐのその後、

御子を黄泉に留め置くことはせず、直ちに、御霊の体を与え、

死より復活させられました。

悲しみの後に与えられた大いなる喜びです。

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、

永遠のいのちを持つためである。     ヨハネ3章16節

 2021.7.11 茅ヶ崎建徳