主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。マタイ15:27

しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、
『主よ。私をお助け下さい。』と言った。
するとイエスは答えて、
『子供たちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです。』と言われた。マタイ15:26

多くの群集を憐れみ、癒しの業を現していたイエス様ですが、
なぜか、このカナンの女に対してはすぐに癒しの業をなさいませんでした。
それ以上に、彼女の叫び声に沈黙を守り、
イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていない』
と女を退けるかのような発言をなさいました。
にもかかわらず、女はイエス様の前にへりくだり、さらになおイエス様に救いを求めたのです。

なぜ、はじめイエス様は一言もお答えにならなかったのでしょうか。

私たちもイエス様に必死で呼び求める祈りに迫られることがあります。
特に愛する家族のことになれば、必死に癒しを求めることもあるでしょう。
そんなとき、イエス様は即座に応えてくださいましたか?

エス様が一言もお答えにならないという経験を受けたことはないでしょうか。
エス様の沈黙がひどくながく続くような日々もあるのではないでしょうか。

エス様はなぜ、すぐに答えて下さらないのでしょうか。

このカナンの女はイエス様が答えてくださらないことを知ると、
自分の態度を変えました。
一つはイエス様の呼び名をダビデの子よ!から主よ!に変えました。
ダビデの子よ!という呼びかけはイスラエルの子らにのみ赦されている呼称でした。
異邦人であるこの女がダビデの子よと呼びかけるということは、〈自分には救われる、選ばれる資格があります〉と暗に主張していることになりました。
そこで、彼女は、『主よ』と呼び名を変えました。これは、自分には救われる資格などありません、選ばれる資格などありませんと自分の無価値を認めたことを意味しました。

もう一つは、遠くからではなく、イエス様の前に来て、ひれ伏したということです。
自分の無価値を認めて、イエス様から遠ざかるのではなく、
あえてイエス様の足元にひれ伏し、身を低くしたのです。
彼女は、『自分には救われる、選ばれる資格は全くないけれども、
エス様の他には頼る方がおりません』という告白を体を持って表したのです。

エス様がただ単に癒しの業を女に施したなら、癒されたことだけを喜んで、
この女は群集の中に再び紛れ込んでしまったことでしょう。

エス様はこの女に癒しの業を与えることより以上に、
この女の中に信仰が芽生えることを、この女がよりへりくだり、
エス様に自ら近づくものに変えられることを願ったのでした。

エス様の愛は深く、そのまなざしは私たちの奥にまで及んでいます。
私たちもイエス様が沈黙を守られるとき、
その時はもう一度自分を吟味し、自分の義を捨て、
さらにへりくだり、真の礼拝者となることを主が再び求めているときではないでしょうか。感謝します。

すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。Ⅰコリント1:28,29
                                  2008.9.20メッセージ要旨