主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

「あなたに恵みを施したい」


私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。Ⅱサムエル記97
9章全体の中に「恵みを施したい」というダビデ王の言葉が3度も記されています。(1,3,7)ダビデ王の心に、サウルの生き残った者を裁こうという心は一つもなく、一方的に「恵みを施したい」という心で満ちていたことがよくわかります。ここから私たちは主の御心も、私たちを裁くのではなく、恵みを施すことであることがわかります。主の御心は、失われた者を探し出し、救うために来られたイエス様の姿の中にあります。
『私たちは、この御子のうちあって、御子の血による購い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは、神の豊かな恵みによることです』エペソ17節。
ダビデ王とヨナタンとの契約
1『私はヨナタンのために』
 ダビデ王が、サウル王の家の者をわざわざ探し出し尋ね求めていたことを知りますが、王である者がなぜ、わざわざ落ちぶれたサウル家の残りの者を探して恵みを施す必要があったのでしょうか。これは「ヨナタンのために」であったと記されています。Ⅰサムエル記2015,16節には『あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。こうしてヨナタンダビデの家と契約を結んだ。』とあり、ヨナタンダビデの家と契約を結んだことが記されています。ダビデヨナタンと深い愛情で結ばれており、ヨナタンと結んだ契約ゆえに、全く面識もなく両足が共に萎えていたヨナタンの子メフィボシェテに恵みを施したいと願ったのです。これは、父なる神様と御子イエス様との愛の関係の中で、父なる神様が御子イエス様の十字架の上で流された血による新しい契約ゆえに、見も知らずの滅ぶしかない、死んだような私たちを恵みによって救わんとする神様の愛の姿を表していると言えます。私たちが救われたのは実に恵みによるのであり、なんら自らの功績によるのではありません。これは、恵みであり、父なる神様と御子イエス様との間でかわされた契約によることをまず覚えたいと思います。
Ⅱ メフィボシェテについて
1:神様は無に等しいものを選ばれる。
8『このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。』
メフィボシェテは子供のころ、馬から落とされ足萎えになりました。(Ⅱサムエル記44節)そのため、ひとりでは馬に乗れず、牧畜も農業も出来ない、戦士としても役立たず、男としての価値もない、無益な者として、他人に養われるしかない、何の希望もない人生を送っていたのです。彼の住んでいた『ロ・デバル』(94節)という地名は、「空虚な地」という意味だそうです。
神様は心砕かれた者の魂を顧みられる御方です。神様は無に等しいものをかえって選ばれ、救われます。それは、誰一人自分を誇ることのないためです。私たちも己のことを「死んだ犬のような私を顧みて下さるのですか」と主に向かって告白できるならば幸いであると思います。
2:私たちは裁かれる恐れから解放され、死を免れ、新しく礼拝者とされる。
7節『恐れることはない』 
彼は探し出されダビデ王の前に引き出された時には、死の恐怖におびえていました。通常であればサウル王家を根絶やしにするために、探し出されて裁かれても致し方ない立場にあったからです。にもかかわらず、かえって恵みを施そうとするダビデ王の憐れみ深い言葉を聞いた時、彼はどれだけ驚き、王の憐れみ深い心に触れ王の前にひれ伏したことでしょうか!彼の心は裁かれる恐れから解放されたばかりか、さらに死そのものからも解放されました。また、彼はマキルの家(虚しさの家)から解放されたのです。私たちも主イエス様に出会う時に、同じように死の恐怖から解放され、空虚な心から解放されるのです。さらに、あえて無に等しい者を選んで下さり救いの恵みを与えて下さったことを知る時に私たちの心は、主イエス様の御前にひれ伏す礼拝の心へと導かれます。
『また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有る者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは神の御前でだれも誇らせないためです』。Ⅰコリント12829
3:私たちは神の所有とされる。
11節『こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった』
ダビデ王はどのような恵みを彼に施したのでしょうか。それはまことに素晴らしいものでした。①祖父サウルの地所を全部返され(7節)②地所を耕す召使が与えられ(10節)③王の息子のように扱われ(11節)④王の食卓で王と一緒に食事をすることが赦されました(11節)これは私たちが救われたことにより与えられる神の子としての身分を表しています。①神様はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さいました。(エペソ1章3節)②みなの益になるために、賜物が与えられました(Ⅰコリント12:7)③神の子として下さり(エペソ15)④主の家に住まい、主の食卓を囲むことが許されました。(詩編236節)私たちも聖書にある通り神の子とされている身分を十分に味わいたいものだと思います。
4:謙る心
最後に13節に『彼は両足が共になえていた』9章の最後にわざわざ書き添えてあることに注目したいと思います。彼は王の食卓で食事をするようになってからも、彼が幼いころに受けた足の障害は一生治ることはありませんでした。彼はいつも足を引きずりながら、王の食卓についていたのです。これは人が救われた後も、常に己の弱さがあり、己の弱さを覚えておくためではないかと思います。   神の子として歩むということは、自分の欠けが無くなることではなく、己を顧みれば欠けだらけにも関わらず、王である主イエス様を見上げれば、素晴らしい身分が与えられていることに気がつくということではないでしょうか。聖書にこうあります。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ喜んで私の弱さを誇りましょうⅡコリン129
 メフィボシェテのように主の恵み深さを味わい知る者へと造りかえられていきたいと願います。