このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。 Ⅱサムエル9:8
9章全体の中に、『恵みを施したい』というダビデ王の言葉が3度も記されています。1,3,7節。
ダビデ王の心は、サウルの生き残った者に対して、裁こうという心ではなく、恵みを施したいという心であったことがよくわかります。
ここから私たちの主の御心も、私たちを裁くのではなく、恵みを施すことであることが分かります。
主の御心は、失われた者を探し出し、救うために来られたイエス様の姿の中にあります。
3節:サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその者に神の恵みを施したい。
ダビデ王が、サウル王の家の者をわわざ探し出し尋ね求めていたことを知りますが、
王であるものがなぜ、わざわざ、落ちぶれたサウル家の残りのものを探し出して恵みを施す必要があったでしょうか。これは、一方的にダビデ王から出た心であって、王に何の義務もありませんでした。
これは、父なる神様がイエス様の父なる神様への献身の心ゆえに、ご自分のいのちを十字架にかけたその犠牲ゆえに、滅ぶしかない、死んだような者に恵みを施し下さるゆえんを現していると言えます。
私たちが救われたのは実に恵みによるのであって、なんら自分の功績によるものではありません。
それは、イエス様の父なる神様への全き自己犠牲によるのです。
8節:このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みて下さるのですか。
ダビデ王の言葉を聞いたメフィボシェテは何と驚いたことでしょうか。サウル王家を根絶やしにするために、探し出されて裁かれても致し方がない自分であったにも関わらず、かえって、恵みを施そうとされるダビデ王の言葉を聞いた時、彼はどれだけ王の前にひれ伏したことでしょうか!
私たちも、死んだ後に神のさばきの前に出される時、己の罪ゆえに裁かれても当然であるものですが、
そのように思っていた時、イエス様の十字架の犠牲ゆえに、裁かれることなく、かえって神様の食卓に共につくことができるという、神様が招いて食卓を共にしたいという言葉をきくことができるとしたら、なんという驚きとともに、神様の心の寛容さにひれ伏すことでしょうか。
私たちの心の中に、メフィボシェテのようなへりくだった心があるでしょうか。死んだ犬のようなものであるとの自覚があるでしょうか。私たちは、なにか資格があって救われたのではなく、資格がないにもかかわらず、イエス様の十字架の犠牲ゆえに救われたのです。ここには、自ら何も誇れるものはありません。ただただイエス様の十字架の犠牲を讃えるほかないのです。
恵みとは受ける資格がないにも関わらず、与えられる神様からの一方的な祝福です。
メフィボシェテに対するダビデ王の姿は、実に私たちに対する神様の愛の御姿を教えて下さる素晴らしい出来事であると言えます。
感謝。