主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。Ⅰテサロ2:8

【宣教者としてのパウロ

このように
あなたがたを思う心から、ただ神の福音だけでなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。 Ⅰテサロニケ2:8    
パウロは人から賞賛を受けようとして福音を伝えているのではなく、
神に認められて福音を委ねられているという自覚から福音を語り、伝える者でした。
この2章には、パウロの宣教者として神に喜んでいのちを捧げたいという姿勢があちらこちらに見受けられます。

=迷いや不純な心から出ているものではない。=
=だましごとではない。=
=人を喜ばせようとしているのではない。=
=キリストの使徒としての権威を主張しない。=
=自分自身のいのちまでも、喜んであなたがたにあたえたい。=
=あなた方の誰にも負担をかけまい。=

パウロは自分自身には、厳しく、しかし、テサロニケの人々へは、
=母がその子どもたちを養い育てるように優しく振る舞い=、
=また、父がその子どもに対してするように、厳かに命じ=、
と家族と接するように接したのでした。

これほどにまで、パウロを宣教に駆り立てたイエス様とはどのような方でしょうか?
私たちの心には、パウロが受けたような主イエス様の愛が迫っているでしょうか?

エス様もパウロに見られるように、いやもちろんそれ以上に、福音宣教にかける情熱はほとばしる勢いがあったに違いありません。私たち罪人が悔い改めて神に立ち返ることができるなら、自分のいのちまでも、喜んで与えたいと願う方であったに違いありません。
パウロの姿からイエス様の宣教への情熱、私たちを熱心に思う主ご自身の愛を教えられます。感謝。