わたしはいのちのパンです
イエス様がキリストであるとはっきりと霊において知ったのは、
イエス様が命の源であることをはっきりと教えられたことからです。
それまで、わたしは枯れた骨の状態で、『友人にあなたの目は死んだ魚の目みたいだ!!』と揶揄されたほど、腐っていた!状態であった時代があります。
キリストからは常に命が流れ続けています。
そして、キリストにつながっている人はキリストの命を流す管となって周囲に命を供給することができています。
キリストの命を流す人のそばにいれば、周囲の人々は命に触れますので、一時、命に満たされることができまし、
キリストのよき香りを味わい、自分もキリストに結ばれているような気になることもできます。一時的に枯れた骨も潤わされます。
しかし、その人が直接、じかにキリストに結びついていなければ、
直接命を供給されているわけではありませんので、
じかに結びついていない人はすぐに渇いてしまいます。
わたしは、しばしの間、
①命の源がどこにあるのか分からず、
また、
②どのようにして命の源につながればよいのか知らずにいたために、
キリストを捜し求めながらも、非常に辛い苦しい時代を経ていました。
聖書にはそのことに関する答えが明快にしるされています。
①いのちの源はイエス様にあります。
と明快に答えが記されています。
イエス様こそ、命の源であるということです。当時のわたしは、イエス様がキリストであることをはっきりと知りませんでした。イエス様のことは聖書でよく知っていましたが、イエス様を命の源、キリストであると結びつけようとはしていませんでした。
②イエス様のところへは誰でも無条件で行くことができます。
聖書に『わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません』(ヨハネ6:37)と書いてあります。
『子を見て、信じる者がみな永遠のいのちを持つことです』(ヨハネ6:40)
わたしは、イエス様を信じれば良いということを知るまでにずいぶんと苦しみました。
わたしは、自分さえも、個人的にイエス様を信じることがきるのだということをしばし理解できませんでしたし、
命の流れの周囲を右往左往していたことを思い出します。
イエス様にまっすぐ結びつかなければなりません。
キリスト教の雰囲気の良さだけに満足していてはなりません。
イエス様に一対一でしっかりと結びつくことが大切です。
ある信仰の先輩は、キリストの直弟子になりなさいとアドバイスしてくれました。それは、弟子の弟子では、キリストから直接恵みをいただけません。キリストを直に信じてこそ、キリストに直に結びつき、豊かないのちを得て、またいのちを流す器となるのです。
④イエス様のことばにはいのちがあります。
このことをわたしは自分自身のために、もう一度確認しておきたいと思います。
イエス様を信じて、いのちを与えられ、いのちに満たされ活かされ、喜びに満ち溢れた後、
このいのちの喜びをいかにして伝えればよいだろうかと喜び悩みました。
その答えも聖書にありました。
『わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちなのです』(ヨハネ6:63)
この聖書の内容がわたしの宣教の原点です。
イエス様のことばを伝えれば、人はいのちを受けることができるのだと知りました。
主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。
(エゼキエル37:4)
だからこそ、聖書のことばを伝えることを使命として、生きようと心に決めたのです。
そのことを忘れないようにしたいと思います。
牧師の信仰や、友人の信仰はあなたの救いのためには何も役立ちません。
あなたが信じてこそ、あなたが救われるのです。
聖書はイエス様こそ、キリストであることを証しています。
2011.2.6家庭礼拝