だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。ヨハネ7章37節
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、
神よ。わたしのたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。詩篇42篇1,2節
1.だれでも渇いているなら
魂が飢え渇く。
ヨハネ7章37節から39節は、わたしの洗礼を受けた後の証です。
ここでイエス様がおっしゃったとおりに、
私の魂が谷川の流れを慕いあえぐ鹿のように、
私の魂が生ける水の川を慕いあえいでいた時、
イエス様のもとに行くことによって、私の腹の底から聖書が言っている通りに、
心の奥底から、生ける水の川が流れ出た証の言葉です。
私の魂は生ける水を慕い求めてあえいでいました。すでに魂の渇きは頂点に達し、
砂漠で迷い出た旅人が『水!、水!』とどこかにのどの渇きを癒す水はないだろうかと探し求め、もう寸前で命が絶えるような状態にまで渇いていました。
私は生ける水を探し求めてあちらこちらをさまよい歩きました。
精神世界の中もさ迷い歩き、ヨガやニューエイジムーブメントなどの世界の中にも生ける水はないだろうかと歩き回りました。
グルと言われる精神世界の指導者たちの言葉にも耳を傾け、
グルたちの言われる言葉は一時的に私の魂を鼓舞しますが、
それは魂を根底から救う言葉ではありませんでした。
東洋思想の中にある気の世界もさ迷い歩きました。
今の日本では、気という存在さえも知られていないかもしれません。
しかし、
気には、確かに力があります。
私は、以前、合気道に出会い、もしかするとこの気の中に命があるのかもしれないと
長い間合気道の稽古を続け、気の世界を求め続けました。
真の気は確かに人の心を癒すものがあります。しかし、気も神様が造られた被造物の一つに過ぎず、気にほんとの命があるのではないことを知りました。
森羅万象を司る神様が造られた被造物の世界もさ迷い歩きました。
神様が造られた自然の中には神様の息吹があります。それは汚れることなく、神に向かって賛美を捧げています。
森の木々の中にも、空き地の草花、雑草と言われる植物たちの中にも、華聯な花にも、神の息吹が満ちています。
私は、造られた被造物の中の命に魂の渇きを癒してもらおうと近づきました。
それらの被造物は確かに私の魂を癒してくれます。
しかし、それは一時的な癒しであり、また私の魂を完全に満たすことはできませんでした。
あるときは音楽に没頭しました。
音の世界はほんとうに素晴らしいもので、神様はよくこんな素晴らしい音という世界を創造し、魂を癒し、魅惑するものかと。
音の世界は魂を魅惑し、飢え渇きを忘れさせてくれました。また、私の感情を支え、慰めもしてくれました。
しかし、音から離れると私の魂はまた魂が飢え渇いていることに直面させられ、
私の魂はいまなお生ける水を探し求めているのでした。
私の魂は渇ききっていました。
キリスト教の教会にも通いました。
確かに牧師を通して語られる説教は私の魂を潤します。
教会はキリストの香りに満ちています。
しかし、香りは体の外側を満たしても、心の内までは満たすことはできません。
礼拝が終わり家に戻れば、
世の楽しみと肉欲の世界に引き戻され、
私の魂はまた虚しさに苛まれました。
よい説教を聞いても、イエス様を私の個人的な救い主として心の内にお迎えするまでは、私の魂は渇いたままでした。
その時、私はまだ気が付いていませんでしたが、牧師から聴く神の言葉、聖書から聴く神の言葉は私の魂を少しづつ癒し、私の魂の内側に蓄えられていきました。
2.わたしのもとに来て飲みなさい。
現実世界の中では私は世の仕事に行きづまり、
心も体も疲れ果てていました。
私の魂が渇き切り、もはや気を失い、
私の魂が滅びの淵に沈みこんでいこうとしている寸前、
イエス様はご自身の右の手をもって、私の魂を滅びの淵より引き上げて下さいました。
それは、ペテロが湖に沈みかけた時、イエス様がペテロを引き上げて下さった時のようでした。
このとき、私は、イエス様が私自身を救って下さったことを知りました。
聖書に記されているイエス様が世の救い主としてではなく、私個人の救い主であることを知ったのです。
私はイエス様が私を滅びの淵から救い出して下さったことを知った時、
この方を公に人々の前で、イエス様は私の救い主です!!とはっきりと言い表さなければいけない、心の中に隠しもっていてはいけないと確信が与えられ、
私は洗礼を受ける決心をしました。
牧師にその願いを伝え、牧師も快く了承してくれました。
3.わたしを信じる者は、聖書の言っているとおりに、
洗礼を受けた後、聖霊が私の上に降りました。
そうすると、不思議なことに!!、聖書の言っている通りに、
私の心の奥底から、生ける水の川が溢れ流れだしたのです。
この生ける水の川こそ、私が長い間探し求めていた
いのちの水でした。
わたしの魂はこの生ける水の川から溢れ流れるいのちの水をがぶがぶとのみ、
汲めども汲めども尽きないこのいのちの水を私の魂の隅々にまで行き巡らせました。
このいのちの水は、まことに私の魂を癒すもの、満たすもの、私の魂はいのちの水に癒され、
私の心の奥底からは歓喜が沸き起こりました。
喜びの泉が湧き上り、周囲に溢れ流れ、その流れはとどまることを知りません。
私はこの喜びを周囲の人々になんとしても伝えたいという願いに満たされました。
伝道とはこの喜びを人々に伝えることです。
4.これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。
御霊はすでに注がれています。
魂の渇きに気が付き、イエス様の元に行き、
イエス様を信じる者には、だれにでも
御霊は与えらます。
御霊は私たちの魂の渇きを癒すいのちの水なのです。
2022.8.14 茅ヶ崎集会 メッセージ 証