主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

わたしが仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。Ⅱ列5:16

それでもナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断わった
ゲハジように、神の手柄を自分の所有としたものは、その病までも自分の身に負わなければならなくなったのです。
 
 
以前習っていたクリスチャンの合気道の師匠は、合気整体術を通して、癒しの奉仕をされていたが、
患者さんから御礼を一切受け取らなかった。
エス様が為される癒しの御業を自分の手柄としてはいけないということをいつもおっしゃっていた。
 
神様の誉れを人の誉れとしてはならない。
特に癒しに関しては、自分に何か力があったのではないかとかの邪な思いが入り込まないように注意しなければならない。
エス様も、悪霊が天から落ちるのを見て喜んだ弟子たちを戒め、自分の名が天に記されていることを喜びなさいと言われました。
 
ゲセラの狂人の中には、豚2000匹もの悪霊が住み込んでいました。これほどの悪霊を人が引き受けることができるでしょうか?
 
霊的な癒しの奉仕、悪霊を追い出すような奉仕の務めを任されている主の僕は、
(これは、癒しだけに限らず、御言葉を語る奉仕も同様ですが、)
主の栄光を自分の栄光として横取りしないようによくよく心を治めておきたいと思います。
 
ついでに思うところは、カウンセリングと称して教会で人の話を聴くということも、大変危ない面があります。
人の心はよろずのものよりも偽るもので、人の心に確かなところはありません。
人の心を聴いて人の問題は解決しないということがまず一つ。
自分の心さえも探りきることの出来ない人間が他人の心を聞くことなどもともと出来ないということがもう一つ。
他人の悩みを解決したい、なにか少しでも役立ちたいと自分にも人の問題を解決できる何かの方法があるのではないかと錯覚させてしまうこと。何か人の心を聴くことができるかのような自己欺瞞があること。
エス様に直接話すよりも、人に話すことで偽りの平安を得てしまうこと。
 
しかし、
人の心を聴くことのできる方は唯一イエス様だけであり、
また人の心の不安を取り除くことができるのもイエス様の御言葉しかないということ。
 
このような基本的な聖書の真理を語らずして、教会内で人の心を聴くと証して、人に何か解決できる力があると信徒に錯覚させることは非常に大きな自己欺瞞だと思います。
もちろん、カウンセリングは世の解決方法としては有効性があるでしょうけど、
教会が示すのは、イエス様にこそ救いがあるということだと思います。