主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。マタイ28章19節

マタイが最後に記録したイエス様の御言葉。
マタイによる福音書ヨハネによる福音書では、復活されたイエス様の描写がずいぶんと違うように見えます。
マタイでは、マリヤが石をころがされる場面を見ていますが、マルコ、ルカ、ヨハネでは、石はすでにころがしてありました。マタイでは、御使いがマリヤに語りかけ、ヨハネ福音書だけが墓のすぐそばでイエス様がマグダラのマリヤに出会っています。
 
あまりに衝撃的事件にあいますと、その時間の前後関係が分からなくなってしまったりするものです。その中で一番印象に残っている出来事から思い出して、人に話したりするもではないでしょうか。
 
では、マタイはイエス様の復活において何が一番心に残り、後世に伝えようとしたのでしょうか?それは、弟子としなさいと言われたイエス様の言葉ではないかと思います。
 
マタイは収税所でイエス様に呼び止められ、わたしについてきなさいのお言葉にイエス様の最初の弟子の一人となりました。マタイは収税所の所長として、それなりに頭もよく知識もあり、文章力もある人物であったことでしょう。当時は、ローマの属国として、ローマに税金を納めなくてはならず、マタイはローマを自分の主人として仕えなくてはなりませんでした。けれども、心の中では、自分が心から喜んで仕えることのできる良き上司、主人に出会えることを望んでいたことでしょう。イエス様に出会い、この方こそ私が生涯仕えるにふさわしいご主人となる方だと瞬時に悟ったマタイは喜んでイエス様についていきました。このときから、イエス様の弟子になるということがマタイのクリスチャン人生の大テーマとなりました。私はイエス様の弟子として歩む。弟子とはいったなんであろうか・と。
 
一方ヨハネは、ヨハネ福音書の最後に、イエス様の言葉として、私のひつじを飼いなさいという牧会命令とも言われるイエス様の言葉を残しました。
これは、ペテロとヨハネにとって、漁師であったのに、人を獲る漁師になりなさいと言われ、人を獲るとはどういうことだろうか?とずーっと心に響き続け、自問自答し、彼らがクリスチャンとして歩んでいく、大切なテーマであったのでしょう。
 
エス様は弟子たちにガリラヤに行きなさいとおっしゃいました。
ガリラヤは弟子たちが、イエス様に呼びかけられ、イエス様に出会った最初の場所です。はじめの愛が満ちているところです。
 
私たちが初めてイエス様に呼びかけられた時、イエス様はわたしたちにどのような語りかけをされたでしょうか?
エス様への愛に燃えていたとき、どのようなクリスチャンとして歩んでいきたいという願いが与えられていたでしょうか?
 
エス様は、今もわたしがそのように歩んでいくことを願っておられるのではないでしょうか・
 
よみがえりのイエス様に出会うということは、十字架で罪の問題が解決され、罪より解放された私たちが、イエス様に属する者として、イエス様の召しに従って歩むということです。かつては罪の奴隷として、自己の欲望のままに生きていた者が、罪・罪過が許され、罪に生きる代わりに、神に生きるものとされました。イエス様が私たちを救われとき、意味もなく救われたのではなく、それぞれイエス様から使命もいただいて救われたはずです。
マタイは復活のイエス様に出会ったときに、あらゆる国民を弟子としなさいという御言葉を聞き、自分のクリスチャン人生のテーマを再発見しました。イエス様の弟子となるということを求め続けて来たマタイにとって、弟子とするというイエス様からの命令は、彼の心に響き、それ以降、自分がイエス様の弟子となるだけでなく、周囲の人々をも弟子としていくという主からの召命を再発見することとなりました。
 
今、わたしの召しは何でしょうか?
 
2012.4.21 集会メッセージ要旨