マルコによる福音書
神の子イエス・キリストの福音のはじめ マルコによる福音書1章1節
1マルコについて
1.マルコはバルナバのいとこ(コロサイ4:10)で、ペテロの弟子でありました。
しかし、後にペテロの弟子となり、ペテロから直接イエス様の生涯について話を聞かされました。ペテロは漁師であったので、字は書けなかったのだと思いますが、神様は、ペテロというイエス様の一番弟子のために、マルコという忠実な弟子を与えて下さったのです。
マルコによる福音書の14章50,51節には、『すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。ある青年が、素肌に亜麻布を一枚まとったままで、イエスについていったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた』と記録されていますが、自分の弱さ、恥をありのままに福音書に記しています。この青年がマルコ自身であったと言われています。
2.使徒12:12『ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大勢の人が集まって、祈っていた。』
マルコの母親は当時のエルサレムの教会の重要な人物で、人々はマルコの母の家に集まって祈っていたことが分かります。マルコはイエス様の使徒とはなりませんでしたが、
ペテロという兄弟子を与えられ、さらに母の信仰、エルサレム教会の祈りの中で信仰を篤くされた人であったと思われます。
3.また、マルコは、パウロの助手として宣教旅行に同伴しました。使徒12:25,13:5、13。ここで記されているヨハネはマルコの事です。Ⅱテモテ4:11
マルコは、第一次宣教旅行(AD44年頃)の途中、パンフリヤでパウロ一行から離れてしまったことがありました。パウロは、マルコがおじけづいたのか、彼の小心者とみたのか、仕事のために同行しなかったマルコは第二次宣教旅行(AD50年頃)に連れて行かないほうがいいと主張しました。
使徒15:37~『ところが、バルナバはマルコと呼ばれるヨハネも一緒に連れて行くつもりであった。しかし、パウロは、パンフリヤで一行から離れてしまし、仕事のために同行しなかったような者は一緒に連れて行かないほうがよいと考えた。そして、激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡っていった。』
しかし、のちにパウロはマルコを認め、
AD62年頃、マルコはパウロと一緒にローマにいました。『私と一緒に囚人となっているアリスタルコがあなたがたによろしくといっています。バルナバのいとこであるマルコも同じです』コロサイ4:10
AD67 年ころローマで殉教する直前の手紙で
Ⅱテモテ4:11『マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役立つからです』と言っています。
熱心なパウロから見れば、不甲斐ない若者であったマルコもイエス様に愛された弟子でした。彼も、多くの経験を通してたくましい宣教者へと変えられていったのです。ですから、私たちも不甲斐なく見える若いクリスチャンも将来神様がどのように育てて行かれるか分かりませんので、一人ひとりを大切にしたいと思います。
4.マルコの福音書は、ローマにある教会を目当てとしてAD60~70までの間に、ローマにおいて書かれたものと考えられています。
マタイによる福音書はユダヤ人の王を待望してきたユダヤ人に向けて書かれ、イエス様がユダヤ人の王であることを表し、
ルカによる福音書は人間中心の哲学が発達したギリシャ人に向けて書かれ、イエス様の人間性の完全さを表し、マルコによる福音書は、当時の世界の覇権者であるローマ帝国、政治権力、軍事力という力こそ、彼らの崇拝の対象であったローマ人に対して、神の業、神の力、神の子としてのキリストを書き表したと言われています。
初代皇帝となったアウグストは皇帝としての権威を高めるため、『神の子』と呼ばせました。ここで、神とは死後に神格化された義父カエサル・シーザのことです。(正確なことは歴史の詳しい方にお任せします)
マルコは、このローマに対して、ローマ皇帝こそ神の子であるとする時代の最中に、マルコ福音書1章1節の筆頭に『神の子はイエス・キリストである』と高らかに宣言しているのです。なんと、勇気ある宣言でしょうか。
最後に、ペテロの言葉を紹介します。
Ⅰペテロ5章13節『バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた夫人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています』
ペテロに愛され、パウロ、バルナバに愛され、母の信仰に守られ祈られて成長したマルコ、このマルコがマルコによる福音書をしるし、その第一声に神の子イエス・キリストの福音のはじめと高らかにイエス様こそ、天地を造られた神の独り子であることを宣言するのです。
聖書から青年マルコを幼い時から見守り、不甲斐ない若者であったマルコを立派な宣教者へと成長させて下さった神様の愛を教えられ、励まされます。
2023.1.22 茅ヶ崎礼拝メッセージ