主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

どのようにして主を礼拝するかを教えた。Ⅱ列王記17:28

主の目にかなうことを行いつつも、高き所は取り除かずにいたことが列王記には幾たびと記されている。
まことの主を礼拝しようにも、どのように主を礼拝したらよいのかが忘れ去られていた。
 
私たちの礼拝は
主の喜ばれる礼拝となっているのでしょうか。
主が求めておられる礼拝となっているのでしょうか。
どのように主を礼拝するかを知っているのでしょうか。
 
どのように主を礼拝するのですか?と問われ、
目に見える形として、霊とまことによる礼拝をどのようにあらわしているのでしょうか?
問いかけられると、心もとない気がします。
礼拝の中で、牧師が中心となっていないか。民の肉を喜ばすことになっていないか。
信仰ではなく、人の行いが中心となっていないか。
神の御言葉ではなく、人の言葉が中心となっていないか。
いつのまにか、異教の儀式を礼拝式としてとりいれていることはないか。
主を礼拝すると言いながら、自分の心の中に高き所の祭壇を築いて、同時に金や銀をこの世の神をあがめていないか。
 
私たちが礼拝と呼んでいるものを吟味するときもまた必要かと思います。