主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。マルコ16章7節

ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。              マルコ16章7節

信仰のふるさとはどこですか?
 マタイによる福音書とマルコにょる福音書のそれぞれには、天使の言葉を通じて、

よみがえられたイエス様に出会いたければ、ガリラヤに行きなさいとの勧めがなされています。

ヨハネによる福音書においても、ガリラヤ湖畔でのイエス様との再会について丁寧に記されています。

 

よみがえられたイエス様が先にガリラヤへ行っているということと、また弟子たちがガリラヤでよみがえられたイエス様にお会いできるとはどのようなことなのでしょうか。

 

ガリラヤは弟子たちがイエス様に出会った最初の思い出の場所です。

ガリラヤでイエス様に呼び出された時から、一緒にイエス様にお供して、イエス様のお話を聞き、イエス様の奇跡に驚き、イエス様の愛のまなざしに感動した場所、

彼らの心が熱く燃え、互いに神の国について、ビジョンについて語り合った場所、

今まで祈ることになど縁も無かった漁師や取税人たちが、祈ることを教えられ、

エス様と共に歩む新しい生き方に感動した場所がガリラヤでした。

 

私にとってのガリラヤはどこだったでしょうか。いつの頃だったでしょうか。

思い出します。弟子たちと同じように、イエス様に呼び出され、イエス様を信じる喜び、永遠の命に出会った喜び、嬉しくて嬉しくて、毎日毎日、イエス様を讃美し続けていた日々、嬉しくて嬉しくて、イエス様を伝えたい思いでいっぱいだった日々。

私にとってのガリラヤを思い出すと今でも心が熱くなり、心が燃えます。

 

弟子たちはやがて、ローマ帝国の各地に遣わされて、復活の使者として福音を伝えてゆきますが、そこでは、内に外に激しい戦いも待っていました。

すべての弟子が殉教の死を遂げました。

そのような彼らを支えたのは、聖霊の助けであり、イエス様ご自身ではありますが、彼らを支えていたイエス様の姿、いつも彼らが思い出すイエス様の言葉はガリラヤ湖でイエス様と一緒に歩んだ日々だったのではないでしょうか。

 

聖書は、見失ってしまったイエス様を見出すためにガリラヤに戻ることを勧めているということは興味深いことです。

 

ガリラヤに戻るということは、ただ単に過去の思い出に戻るということでしょうか?

 

私たちは、現実の教会生活や宣教の現場で、今まで心に熱く燃えて活動してたのに、何かのきっかけで心くじけ、そこから失意のうちに去ってしまったという経験はないでしょうか。おおきくつまずいてしまい、そこを立ち去ってしまった悲しみの経験。そこにイエス様はもうおられないと自ら立ち去ってしまったということはないでしょうか。

しかし、すこし前は、そこに熱い情熱がそそがれていたではありませんか。

 

ガリラヤ行きなさいというメッセージは、失意うちに去ってしまったもとの現場にもう一度戻りなさいとのおすすめではないでしょうか。

そこに、もう一度生きておられるイエス様が待っておられ、イエス様がもう一度あなたと共に歩もうと待っておられます。

 

 
 
2019.4.27 片瀬山集会 2019.4.28 茅ヶ崎集会