主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。ヨハネ4章50節

第二のしるし。

エス様を信じる事。ヨハネ福音書4章43節から54節

1:43節から45節 イエス様は刈り入れの実を求めて歩き回っておられる。

エス様を預言者として敬うことをしなかったナザレを避けてイエス様はガリラヤへ行かれた。イエス様はイエス様に対する期待とイエス様に対する信仰の溢れるところにおいて、ご自身の御業を現わされる。

エス様に対する期待の無いところではイエス様は何もなされず、素通りしてしまう。

私たちの教会はイエス様に対する期待に溢れているであろうか。ガリラヤの人々がイエス様が来られることを大歓迎したように、私たちの教会はイエス様を歓迎しているだろうか。

預言者を敬わないところにおいて、預言者も預言の業を行わない。 

牧師を尊敬しない教会では、牧師を通してイエス様はご自身の言葉を語られない。

期待感をもって御言葉が語られることを待ち望んでいるでしょうか。

 

エス様は、サマリヤ人の中に救い主の期待があることを見抜いていた。

エス様は、ガリラヤの王の役人の魂が刈り入れるばかりに色ずいていたことに気が付いていた。

エス様は不信仰なユダヤ人や故郷の人々よりも刈り入れまじかな人々を優先的に尋ね求められる。

 

2:46節から47節 王室の役人の苦悩 

王室の役人と言えば、周囲の者からみれば高級官僚であり、身分も地位も保証され、住まいも食も困らない恵まれ、人々からうらやましがられる立場であったに違いない。

しかし、人は見かけが良ければ悩みがないとは限らない。

彼には、病気の息子がいた。彼にとっては、病気で死にかかっている息子のことが何よりも気がかりであった。彼にとっては、自身の社会的な身分よりも、息子の命が助かることこそが望みであった。

私たちの周囲にも羨ましがられるような社会的身分の人がいるかもしれない。しかし、危急の問題を抱えて日々苦悩しているかもしれない。

 

3 47節:イエス様は来るものを拒まない。

エス様はどんな悩みであろうとご自身を頼ってきた者を拒みはしない。イエス様に対する人の要求はとんちんかんなものである。この役人も息子の病を癒していただきたく、イエス様のところにまでやってきた。イエス様が救い主であるかどうかなど彼には全く関心のないことであった。

4 48節:イエス様の関心は彼の魂の救いにあった。

 彼は癒していただくためにイエス様のもとに懇願にきたが、イエス様が求められたのは、彼の信仰であった。彼には、もともとイエス様ご自身に関心はなかった。ただイエス様が、病気を癒す力のある預言者であることを知り、その力が欲しかった。

彼は癒しを求めたが、イエス様は信仰を求めた。

エス様は私たちが何を願い求めようと拒みはしない。しかし、私たちの要求にすぐに応えられるとは限らない。イエス様に願い求めても一向に応えが示されないというような時を私たちは経験する。

エス様が沈黙をされるとき、私たちは苦悶を始め、自分の態度の変更に迫られてくる。

エス様は私たちに信じる心を与えようと沈黙という空白の時間を設けられる。

 

5 49節:変えられた役人の心

息子をいやしてほしいという気持ちは変わらない。彼の中で変わったのはイエス様に対する態度である。47節では、役人はまだイエス様に対して”主よ”という呼びかけは見当たらない。しかし、49節になって、彼ははじめて”主よ”とイエス様に呼びかけた。

自分の問題で頭がいっぱいであった役人の心にイエス様ご自身に向かう心が現れ始めた。この方を何と呼べばいいのだろうか。彼は、イエス様を今彼が抱えている息子の問題全体を統治することのできる神として、人に願うのではなく、神に願うという心が生まれてきた。イエス様は主である。ヘロデ王に仕える役人にとって、ヘロデが主であり、ヘロデ王以外のものを主と呼ぶことは反逆であり、王室の役人の立場ではありえないことであった。イエス様を主と呼ぶことにより、彼は自分の身分も地位もいのちさえも失うことを覚悟しなければならなかった。しかし、それでも役人はイエス様を主と呼ぶことを決断した。この時、彼の中にイエス様に対する信仰が生まれた。

エス様はこの変化が起こることを待っていた。

 

6 50節 危急の中でイエス様の言葉を心に聞くことの大切さ

エス様はどんな個人的な問題であっても、本気で祈り求めてくる者に御言葉を与えて下さる。その御言葉をそのものの魂を支える。これでいいのだ、この道を歩んでいけばいいのだと、状況は変わっていないかもしれないが、この道を歩んでいけばよいという確信を与える。御言葉は 我が足のともしび、我が道の光となる。御言葉が与えられる時、御言葉の背後におられるイエス様ご自身の真実さ、愛に支えられていることを悟る。

7 50節 彼は御言葉に信頼し、帰途につくことができた。

彼は、しるしと不思議をまだ見ていないが、イエスの言われることばを信じる者に変えられた。イエス様の真実さに触れ、目の前にある不安にではなく、イエス様の真実さに身を寄せ、帰途についた。

彼は、息子の死という恐怖に巻き込まれそうな自身の心と闘いながら、イエス様の『息子は直っています』ということばを幾度も反芻しながら帰途についたに違いない。

 

8 52節から53節 御言葉から主ご自身への信仰へ

 私たちは、この王室の役人のように、人生の不安や危機の中で幾度も主の下に行き、深く祈り主の言葉を聞き、主の言葉に支えられて歩み出すという体験を繰り返していく。

これらの体験は私たちの中に主ご自身に対する信仰を生み出してくる。

個々の御言葉が与えられなくても、心の中に主ご自身に対する信頼が私を支える。

 

私が関心があるのは悩んでいるあなた(親自身)である。あなたの中に不信仰という課題がある。子供をなんとかする前に、あなた自身が私を信じ、不信仰から信仰へと自身の態度を変えてほしい。あなたが、前を見てしっかり歩み始めるとき、私は息子たちの問題も解決しよう。

しるしや奇跡は御言葉に対する信仰に伴ってくる。御言葉を信じて歩んでいく過程の中でイエス様の神としてのしるしも奇跡も現れる

 

9 適用  親の信仰を願う、

子供の問題で悩みを抱えている親は大勢いると思います。自分の子どもの心配をしない親はいないと思います。

子供のためと思って、子供を変えようとあちらこちらを尋ねまわり、子供をいじりまわし、いつのまにか子供をだめにしてしまっていることもあるかもしれません。

親の要求に応えようと無意識に努力を続けてきた子供たちもいつのまにか息切れがし、死にかかってしまっているかもしれません。

子どもの事で悩みがあるならばイエス様の下に来てみませんか。

本日の聖書の話が教えてくれていることは、

①イエス様はどんな人の悩みでも拒みはしないということ

②悩みを抱えてきた親御さん自身に関心をもっておられるということ

③親御さんの悩みに応え、平安を与えたいとイエス様は願っていらっしゃること

④イエス様は人の悩みの中でその人を支えて下さるということ

 

子どものことで精いっぱいで自分の問題が置き去りにされているかもしれません。

この王室の役人は、今までイエス・キリストに何の関心もありませんでした。

息子の病という家族の一大事を通して、藁にもすがる思いでイエス・キリストに助けを求めました。

家族の中に生じた危機はイエス・キリストに出会うきっかけとなります。それは、イエス様があなたを呼んでいる時かもしれません。

イエス・キリストに祈りを通してあなたの抱えている悩みを打ち明けてみてはいかがでしょうか。祈りとは、静かな時間を設けて、イエス様に人格的に呼びかけて人と話をするように語りかけてみることです。

 

 イエス様は、個人的な問題を抱えてきた役人の心を主ご自身への信仰を持つに至るまで引き上げて下さいました。この父親にたいするイエス様の憐みがあったからこそ、息子の癒しにとどまらず父と家族が救われ、息子が癒された後も主に感謝して歩む新しい人生がこの家族全体に与えられたことはなんと幸いなことであったことでしょうか。

2020.6.28 茅ヶ崎集会メッセージ要旨

 

 

 

 

 

 

しかし、わたしが与える水を飲むものはだれでも、決して渇くことがありません。ヨハネ4章14節

ヨハネ4章1節から26節

人の根源的な霊の渇きと癒し。ヨハネ4章14節

 

〇人の霊が渇く。

いったい誰が、いったいどこに、いったいどのようにして、私の霊の餓え渇きは癒されるのであろうか。

人は人生の旅で疲れを覚える。

人によって傷つき、人によって癒される。

エス様は旅の途中に疲れを覚え、渇きを覚えて休まれた。

人として肉体の弱さを覚えられた。

主はいのちの水、聖霊を与える御方。

 

〇心の餓え渇きは満たされる。

心の嘆き、疎外感、孤独、矛盾、神様なぜ?と問いを持ちながら、井戸の水をくむ者をイエス様は知り、その者が来るのを待っておられ、心の傷口に寄り添いながら話しかけて下さる。

人は心の傷を塞ぎ、奥にしまい込んでしまう。

しかし、心の傷はイエス様に近づく入口、接点となる。

隠してあった心の傷をイエス様の前に素直に表わす時、心の傷は癒される。

エス様は人を傷つけることなく、静かに受け止めて下さる。

エス様の前に心を開くとき、こころの傷をいやす命の水が流れ出す。

 

聖霊は神の賜物、無償で与えられる神の恵み。

人の霊の渇きを癒す唯一無二のものは、イエス様が下さる聖霊のみ。

 

わたしは主、あなたをいやす者である。出エジプト記15:26

 

2020.6.14 茅ヶ崎集会建徳要旨

茅ヶ崎集会は、今月7日より主日礼拝を再開しています。

 

 

 

あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。マタイ24章3節

 弟子たちが、イエス様にこの質問をしたのは、当然のこと、彼らが世の破滅を期待していたからではありません。彼らは、世が終わり、新しい世が来ることを期待して『世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう?』と尋ねたのです。

大切なことは、今の世に見られる様々な混乱や破壊、暴力の世界ではなく、

希望と喜びと調和と平和に満ちた祝福の世界が用意されていることを覚えておくことです。

世の破滅を印象付け、人々を不安で操ろうとする偽宗教とは違います。


エス様は天に昇られる前に弟子たちに世の終わりまで私はいつもあなたがたと共にいると約束してくださいました。

エス様が世の終わりまでと言われた言葉の深さを想わされます。イエス様はご自身が天に戻られた後に起こる終わりの日の前兆を知っていたので、弟子たちにどんなことがあっても、世の終わりまで、あなたたちと共にいて下さることを約束したのち、天に昇られたのでした。

世の終わりとは、クリスチャンにとってはイエス様の空中再臨の日であり、その日、すべてのクリスチャンは復活の体を着せられてイエス様の御下に引き上げられます。すでに眠っていたクリスチャンも一緒によみがえり、イエス様の花嫁としてイエス様と婚宴を迎える日であります。ユダヤ人にとって、世の終わりとは、イエス様が地上に王として来られ、平和な千年王国を樹立される日です。

どちらも大きな艱難の後に来ますが、世の終わりはクリスチャンにとってもユダヤ人にとってもメシヤがこられたことを喜ぶ喜びの日となります。

そして、最後のさばきの日には、死もよみも悪魔も火と硫黄の池に投げ込まれ永遠の苦しみをうけることになります。

父なる神様が計画された世の終わりとは、神と人が共にすみ、もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない世界です。途中、様々な艱難はありますが、この日まで、イエス様はいつもあなたがたとともにいますと約束して下さったのですから、この素晴らしい福音の知らせを喜び楽しもうではありませんか。 

2020.6.7茅ヶ崎集会メッセージ要旨

モーセは、主と語るために会見の天幕にはいると、あかしの箱の上にある『贖いのふた』の二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。民数記7章89節

パン裂きと建徳のつながり。パン裂きだけが、礼拝ではなく、パン裂きのあとに行われる建徳(神の声を聞く)も礼拝の一部です。パン裂きと建徳には密接な関係があります。それは、至聖所における礼拝であり、至聖所から語られる神の声を聞くことを表していると考えられるからです。神は至聖所にて語られます。パン裂きは主の血潮によって、至聖所に至る道です。至聖所における神の臨在の中に浸り、神に栄光を帰することと神の声を聞くことが合わさり、礼拝の行為が完成します。

2020.5.10 茅ヶ崎礼拝建徳要旨(コロナのため主日礼拝は休会、メッセージのみ掲載)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。マタイ6章33節。

ソロモンは、主を第一とするために、礼拝のための神殿を建設した。そこで祈る祈りを天におられる神が聞いて下さるという信仰があった。(Ⅰ列5:5)彼の栄華は、結果として神が祝福として与えて下さったものである。彼は着飾ってはいなかった。

今日も、主イエス様のみを神とし、主にのみ仕えていくということが一番大切であることは変わらない。神を第一とするとき、神は生活の必要さえも満たして下さる。

ソロモンの時代と何が違うのか。「信じる人々の体が聖霊の宮、神の神殿となった。」こと。エス様は人のからだを宮と呼ばれた。聖霊によって、神は人々の内に宿られる。イエス様は、神を礼拝するために、地上に宮は必要ないと言われた。ヨハネ4:20-24。

教会は、全体として神の宮である。それは、この世において神の宿られるところである。1コリ6:19

神を第一とする生活、神を神として礼拝する生活、神の御言葉に聴く生活。

神の義であるイエス様に信頼し、期待し、愛する生活。そのことをイエス様は、ソロモンを模範として私たちに教えて下さった。

 

2020.4.26 茅ヶ崎集会建徳要旨

この方が死につながれていることなど、ありえないからです。使徒の働き2章24節

2020.4.12 イースターに寄せて

 

しかし、神はこの方を死の苦しみから解き放ってよみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。使徒:2章24節

 

人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。使徒10章39,40節

 

今日、これほどの疫病が全世界を覆い、全世界の人々を同時に死の恐怖に陥れている世界を今まで見たことがありませんでした。台風や洪水、日照り、砂漠化などとはまったく違う災いが現れ始めました。

 

しかし、今こそ、イエス・キリストは死からよみがえられた。イエスは死に勝利した!!と高らかに宣言するべき時です。

イースターはまさに、イエス様が死に対するご自身の勝利を証明し、イエスが義であることを立証し、イエスが真の神、救い主であることを示すものです。

闇の力が死の力を振りかざし、人々を恐怖に陥れようとしても、

エスは死に勝利した!と高らかに宣言する者にこそ、闇の力に対する勝利があるのです。

 

エス様の復活は、ご自身を信じる者がすでに罪ゆるされ義と認められていることを保証し、信じる者がキリストにある復活の命を共に生きていることの土台です。

キリストの命の中に生きている者には、死の恐怖ではなく、平和と喜びがあります。絶望ではなく、希望があります。天国への希望があります。

疫病の恐怖の中にいる人々にとっても、イエス様は、私たちの避けどころであり、砦であり、信頼する神です。

 

今、イエス様はすべての人が罪を悔い改めて、イエスを罪からの救い主と信じて、永遠の命を得て、死の恐れから解放され、イエス様と共に喜びの人生を歩むことを願っています。

たとえ、どのような災いが襲い掛かろうとも、主の御名を呼び求める者は皆救われるのです。

エス様を信じましょう。

彼らは、イエスを十字架につけた。マルコ15章24節。

人の罪

群衆もはじめはイエス様がメシヤではないかと期待していた。奇跡の御業、その恵みの言葉、権威ある言葉に期待していた。はじめは期待して待っていたが、自分たちの期待通りに事を進めてくれないことに気が付き始める。

ついに、ユダヤ人の王としてローマ軍を追い払うどころかローマの兵隊に捕らえられしまった。奇跡によってローマ軍を追い払うのではないかという期待も外れた。

三日で神殿を立て直すと言われたイエス様の言葉もただの大言壮語に過ぎなかったと思われた。

律法学者たちもはじめは、もしかしてこの方がメシヤなのかと慎重に探りを入れていた。

しかし、やがて、自分たちの言動を批判するもの、自分たちが守り築き上げてきた宗教制度を批判するものであること、自分たちの体制が崩されることに危機を覚えた時、彼らの態度は一変した。

兵士たちもはじめは、イエスの力に期待していた。

しかし、何の抵抗もなく兵士に捕らえられ、目の前にイエスを見ると、ユダヤ人の王といっていた青年があまりにも弱弱しいことに驚き、

蔑み、軽蔑、侮辱の対象に成り下がってしまった。

力の世界に生きている者たちにとって無力な者は価値のない人間であった。

 

光に近づくほど、影の黒さも濃く映ります。

エス様が、無言で抵抗せず、罪のない姿で罪びとの前に現れるほど、一層人の罪が暴かれていきます。

 

人の罪とは、

神の御心を無視し、神の御心を尋ね求めず、

自分の心の思いのままに生きようとする人の心。

神に聞かず、自分の願いを実現していこうとする人の心。

 

私が、自分の罪をなげき、罪なきキリストの赦しを切実に希うように至ったのは、

 

私は、すでに洗礼を受け、イエス様が私を滅びの淵から救い出して下ったことを知ってました。イエス様を個人的な救い主として信じていました。

エス様は私にとって命でした。永遠の命の約束は確かなものでした。

しかし、イエス様が私の罪の赦し主としてイエス様を受け入れたのはそれから、4年ほどたってからでした。

 

 

主の御心を尋ね求めることなく、自分の願いを実現させようとしていた自己中心的な心の態度こそ、私の罪でした。

エスキリストを人生の中心として生きようとしていないことが私の罪でした。

この罪によって、私は神のさばきを受けるほかないと、

しかし、私は神の裁きを受ける事が恐ろしい、

いったいどうしたらこの罪が許されるのか。

それは、罪のない方はわたしの罪の身代わりとなっていただくほかない。

罪のない方はイエス様しかいない。

エス様だけがわたしの罪の身代わりとなって神のさばきを引き受けることができる。

エス様の身代わりだけが、神様の心を満足させることができると霊に教えられ、

エス様を私の罪の赦し主として受け入れました。

 自分の思い、考え、期待、願いだけが強すぎて、イエス様がそこにいることに気が付かない。そして、環境に不満をぶつけ、結局はイエス様に不満をぶつけてしまっていた私の罪。

 

エス様の御心を尋ね求めながら生きる事が大事であることを教えられ、

祈りの生活が始まりました。聖霊も受けました。

日々、福音を伝えることに熱心な毎日が始まりました。

しかし、それでもなお、振り返ってみれば、自己中心的な生き方を通そうとしている私の罪に気が付きます。

結局のところ、私が生きている存在そのものが罪であり、神の御心にそぐわないものであることに気が付きます。

自己存在そのものが罪であり、神のさばきに値することを知った時、

同時に、このような罪人を赦して下さるイエス様の救い、

エス様の憐み、

エス様の恵みに気が付かされたのです。

罪が増し加わるところに恵みも罪を覆いつくすように増し加わっていきます。

エス様の十字架による罪の赦しの福音は、

個々の過ちを赦すだけでなく、

御心を悲しませてしか歩むことのできない人間の愚かさをイエス様は知り尽くしたうえで、なお、人間の愚かさによって滅びに至るのではなく、

神の聖なるゆえに、神のご計画を遂行していくことのできる福音なのです。

罪の赦しの福音を教えられた者はなんと幸いなことでしょうか。

 

2020.3.22 茅ヶ崎集会建徳要旨