主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

【禁欲と喜び】 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。ガラテヤ書5章22,23節

神さまがゆっくり行こうと言われるならゆっくり行けばいい、一回止まろうと言われるなら止まっていいのです。遅れてもいいのです。

クリスチャンを導く神の霊の働きには、後ろにさがったり遅れたりするという法則があるように思われる。

 

メッセージ音声リンクです。

https://www.christ-hour.com/archive/mp3/427_0.mp3

 

他教会の牧師のメッセージですが、

今の私に必要なメッセージでしたので、覚書として引用させていただきました。

石原知弘によるメッセージ

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。ガラテヤ書5章22,23節

 

 

私は数年前までオランダでキリスト教の勉強をしていたのですが、そのときに学んでいたテーマの一つが、「禁欲と喜び」ということでした。そこで今日と来週、「禁欲と喜び」ということについてお話したいと思います。

今お読みした聖書の言葉は、クリスチャンの生活がどういうものであるかを教えてくれています。その中に、「喜び」、そして、「節制」という言葉がありました。節制を、禁欲と言い換えてもいいかと思います。私は、この禁欲と喜びというのは、どちらもクリスチャンの生活にとって大事なもので、いわば車のブレーキとアクセルのようなものではないかと思っています。喜びというアクセルの力で前へ進み、禁欲や節制というブレーキによって安全に走ることができるわけです。

まず今日は、禁欲について考えてみたいと思います。皆さんの中には、キリスト教に禁欲的なイメージを持っておられる方も多いかもしれません。してはいけないことがいろいろありそうだ、お酒は飲んでもいいのだろうか、たばこをどうなのだろう、というふうに。私には妻も娘もいるのですが、ときどき、「牧師さんも結婚していいのですか」と聞かれることがあります。これも、キリスト教は禁欲的という一つのイメージかもしれません。

確かに聖書では、してはいけないことが教えられていて、その意味では禁欲的です。ただしそれは、罪や悪いことに対してです。今日お読みした聖書の箇所の少し前に、罪のリストと言えるようなものが書かれています。「姦淫、わいせつ、好色」とか、「仲間争い、ねたみ、泥酔」といったことが、してはいけないこととして挙げられています。ですから、例えば、お酒を飲むということは、それ自体がいけないわけではありません。飲み過ぎること、自分を見失うほど泥酔してしまうことはよくないということです。ですからそこではブレーキが必要なのです。

ただ、それにしても、禁欲と言うと、ちょっと堅苦しいというか、あるいは、やっぱり努力や忍耐が必要で、自分にはちょっと無理かな、というふうに感じられるかもしれません。しかし、聖書における禁欲というのは、そういう何か我慢を強いることではありません。聖書が教えるのは、神さまの働きに期待するということです。神さまに働いていただき、神さまの働きに身をゆだねるために、あえて自分のブレーキを踏むということです。ですから、それは、決して堅苦しい生き方ではなく、むしろ神さまから生きる力や希望を与えていただくことなのです。

20世紀の前半にオランダで活躍した牧師で、ノールトマンスという人がいます。生涯小さな村の牧師として働きながら、オランダの教会に大きな影響を与えた人です。このノールトマンスが禁欲ということを強調したのですが、その禁欲とはまさに、神さまの働きにゆだねるということでした。

旧約聖書に出てくるモーセの生涯をたどりながら、ノールトマンスがクリスチャンの生き方について記した『遅れ』という題の文章があります。モーセは、一度若い頃に、自分自身の思いで神さまのために立ち上がろうとしたのですが、そのときはうまくいきませんでした。その後40年が経ってから、今度は神さまご自身に呼び出され、モーセは神さまのために働くことができました。このモーセの経験について触れた後で、ノールトマンスは次のように書いています。「クリスチャンとは一体どういう者であろうか。いろいろな答え方があると思うが、こう言うことができるのではないだろうか。クリスチャンとは、人生がそう簡単にはいかないということを知っている者のことである。クリスチャンを導く神の霊の働きには、後ろにさがったり遅れたりするという法則があるように思われる。古代の神学者アウグスティヌスはこれを、弓矢を引くことにたとえている。まず後ろに引かなければ、前へは飛ばないのである。最も遅れた人生こそ、最も遠くまで行くのである。これこそ聖霊に導かれる生き方である」。このように記しています。

実はノールトマンス自身、学生時代に病気で5年間も休学を余儀なくされ、働きにつくのが遅れるという経験をしていて、これは、そのことを振り返りながら書いた文章ではないかと言われています。そして、ノールトマンスは、今の文章に続けて、こういう生き方が「禁欲」であると言うのです。自分の思いで突き進むのではなく、神さまにゆだねるということです。そのために遅れることがあってもいい、むしろそれこそがクリスチャンの生き方であり、禁欲であるというわけです。堅苦しい、無理な生き方の勧めではありません。そもそも人生は難しく、簡単にはいかないものです。しかし、神さまにゆだねるなら、困難も乗り越え、生きていくことができるのです。

クリスチャンの生活にとって、禁欲とはブレーキのようなものと言いました。それは一つには、罪や悪という危険な横道にそれそうになったとき、しっかりと踏みとどまるためのブレーキですが、それだけでなく、飛ばし過ぎのときにも、私たちはやはりブレーキを踏むのです。ゆっくりでいいからです。クリスチャンとして生きるということは、スピードを競うことではありません。神さまに働いていただき、神さまに導かれて行くことです。神さまがゆっくり行こうと言われるならゆっくり行けばいい、一回止まろうと言われるなら止まっていいのです。遅れてもいいのです。禁欲というブレーキは、最高のドライバーである神さまの運転に身をゆだね、神さまと共に人生を歩んで行くためのものなのです。

 

この記事は以下の番組からの引用です。https://www.christ-hour.com/

わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。ヨハネ6章37節。

なんと心強いイエス様のお約束でしょうか。

私は、ほんとにイエス様を信じているのだろうか、天国に入れるのだろうか。いつか見捨てられるのではないだろうかと信仰に対する不安はだれの心にもよぎります。

そのような私たちの心をイエス様は知っておられます。

しかし、イエス様は、決して捨てないと宣言されます。

信仰とは自分の中に揺れ動かない心を求めるのではなく、揺れ動くことの無いイエス様の言葉に信頼を置くことです。

教会に来ることができたのは、父なる神様がイエス様の御下に招かれている証です。

主の御名を呼ぶことができたのも、父なる神の招きです。

エス様は父なる神様が招待された私たち一人ひとりを終わりの日まで責任をもって守って下さる御方です。

なんと幸いなことでしょうか。

2020.9.27 茅ヶ崎集会建徳要旨

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。ヨハネ6章27節

高校生・大学生とこれからどんな仕事についていこうかと職業選択のために考え、悩む世代の人々にとって、今日のイエス様の御言葉は、職業選択を超え、生きる方向性の決断を迫る大切な御言葉です。

私自身、食糧問題の解決に関わってきたいと農学部の農学科を選んだのですが、

この御言葉は常に私に問いかけてきました。

そして、いつの間にか振り返ってみれば、農業に直接携わるのではなく、永遠のいのちに至る食物、すなわち、いのちのパン、聖書の御言葉を伝える働きに携わるように導かれてきました。

 

『それこそ、人の子があなたがたに与えるものです』と27節の後半にあります。

どのような職業選択であろうと、職業を通して生活の糧(賃金)を得ていく手段であるには変わりありません。しかし、職業がただ生活の糧を得るためであるとき、苦労して、毎日働き続けることにどこかむなしさを感じてしまうのではないでしょうか。

好きで始めた仕事も、お金を稼ぐための手段に代わって、いつのまにか稼ぐことに追い回されてしまってしまうのは疲れる事です。

 

自分の働きを誰かに認めてもらえれば、まだ、やりがいもあります。

 

 

人の子があなたがたに与えるものであるとは、

エス様は、人の働く目的を教えられました。

人は、永遠のいのちに至る食物、すなわち、神の国のために働くという目的のために人に職業を与えられ、神の国のためにはたらく時、神に認められて、人は神に認められてこそ、心の奥に満足を得ることができる存在として作られました。

 

世の中(なくなる食物のための)の仕事はどれだけ働いても、何も残らなかったということもあるかもしれません。

しかし嬉しいことに、永遠のいのちに至る食物のための仕事は、決して無駄になることはありません。

聖書にこう記してあります。

『主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである』第一コリント人への手紙15章36節

 

職業を通して、神の国を広めていく使命があります。

職業を通して、人々に真実や正義や美や真理や愛や慈しみや癒し、奉仕など神様の手足となって平和をこの世界に実現していくことに寄与していくことができます。

 

永遠のいのちに至る食物のために働くとは、

だれもが宣教師や牧師になるということではありません。

エス様を信じながら、与えられた職業を通して、イエス様とともに働いていくことです。学問も芸術も、ケーキ屋も看護師もすべての職業を通して、永遠のいのちに至る食物のために働くことができます。

どんな職業に就くにしろ、その背後に、神の国のために働いていくという目的があれば、その人の働きはやりがいがあります。

 

神の国のために、あなたの職業を生かしませんか。

 

2020.9.13茅ヶ崎集会 建徳要旨

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。ヨハネ6章9節

まとめ。

1.イエス様はいのちのパンを与える御方

2.イエス様の弟子の役割・働き・イエス様に臨む姿勢、信仰

3.教会に託された使命

4.イエス様の祝福に対する間違った姿勢

 

1.イエス様はいのちのパンを与える御方

どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。~イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。5,6節

この6章の1節から15節までは、4つの福音書にすべて書き記されたイエス様の物語です。

この物語から伝わることは、イエス様が奇跡をなさる方であり、人々にパンを供給することのできる創造者、憐み深い神であることはもちろんです。

が、この物語は、6章の後半にイエス様自身が言われた『わたしはいのちのパンです』と、イエス様は人にいのちを供給することのできるお方であること、そして、イエス様ご自身がいのちのパンであることを教えるためになされた奇跡であると言えます。

6章の後半の『わたしはいのちのパンです』という真理を目に見える形で人々に分かりやすく伝えるための奇跡と言ってもいいと思います。

 

2.イエス様の弟子の役割・働き・イエス様に臨む姿勢、信仰

ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。6章9節

もう一つ大切なことは、このような奇跡をなさるイエス様に対して弟子たちはどのような心の姿勢、すなわち、信仰を持てばいいのかを教えてくれています。

ヨハネ福音書に出てくる登場人物は、その都度イエス様に対する信仰の姿勢を私たちに教えてくれます。福音書は弟子たちの視線から見れば、イエス様への出会いの物語です。

エス様は大勢の人々の群れがおなかをすかしていることを知り、ご自身は何をしようとしているかを知っていました。すなわち、イエス様は、この大勢の人々に給食をしようと自ら決めておられたのです。

ここには、ピリポとアンデレとそして無名の少年の3人の登場人物がいます。

・ピリポは計算が上手で現実的なため、イエス様に問いかけられ、さっと計算し、自分たちの手で5000人以上の人々への給食はとても無理!!!とイエス様からの問いかけを拒絶してしまいました。

・アンデレは、イエス様の問いかけに、自分の周囲を見回して、わずかな5つのパンと2匹の魚があることに目を留め、イエス様に差し出しました。アンデレ自身も、これでは何にもならないとつぶやきました。

・少年は、自分の大切な御飯であった5つのパンと二匹の魚をイエス様に使っていただきたいと差し出しました。

 

私たちの模範となる態度はどのようなものでしょうか。

・イエス様はすべてをご存じで、すべてをなさる方だから、私たちはお任せで何もしないで見ていればよい、のではありません。

・私たちが為すには能力が、材料が不足しすぎて、あきらめて何もしないのでもありません。

・イエス様が、ピリポを試したように、イエス様は私たちのことも試します。

何か、教会の課題が見えてきたとき、私たちはどうしようかと思案します。実はその時、見えてきた教会の課題は、イエス様が問いかけてきてくれる課題なのではないでしょうか。

『まこと、あなただったらどうする?』と。

・その課題に対して、私にできること、主に捧げられる素材はないだろうか、手持ちの小さな資源はないだろうかと周囲と自分自身という資源を見つけ出し、それをイエス様に捧げる。その時、イエス様はそれを取り上げて下さり、祝福して下さり、神の国の働きを自ら進めて下さる、そこから道を開いて下さると信じるという態度こそ大切なのではないでしょうか。

 

3.教会に託された使命

目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています。4章35節

この物語は宣教への勧めです。

弟子たちが5千人の人々にパンを分け与えた姿は、イエス様が、教会を通して、人々へいのちのパンである神の言葉を分け与えていく姿を現しています。

神様は、イエス様を教会のかしらとし、教会に体である弟子たちを通して、福音宣教を進められます。

その時、必要なことは五つのパンと二匹の魚を主に捧げていくこと、主が小さなことをも取り上げて祝福して下さるという信仰をもって行動していくことです。

 

4.イエス様の祝福に対する間違った姿勢

そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。6章15節

6章66節には、『こういうわけで、弟子たちの多くの者が離れ去っていき、もはやイエスとともに歩かなかった』とあります。

悲しいことに、一度イエス様に従っていこうと歩み出した者たち、自称弟子であるものたちは、イエス様が自分たちの期待していた預言者と違っていたことに気が付くとあっという間に身をひるがえしイエス様から去っていきました。

エス様はこのような形で離れていく者たちをとどめたりはしませんでした。

 

5千人の給食の奇跡と祝福を目の当たりにして、

人々はイエス様の祝福を勘違いしました。

エス様の祝福を自分の欲を満たすために利用しようとしました。

しかし、自己の利益のために主を利用とする者たちから、イエス様は離れていきます。

 

もし、私たちが教会のために、主の為にと一生懸命捧げてきたのに、一向に主の祝福が現れないと嘆いていることがあったとしたならば、それは、教会の成長、発展、という宗教的な自己利益のためにイエス様を利用しているのかもしれません。

そのような動機で、主の祝福を求めようとしているとき、

エス様は祈りに応えず、一人、山に退いてしまわれます。

 

 

 

2020.8.23 茅ヶ崎集会メッセージ要旨

 

 

 

 

わたしはその罪人のかしらです。Ⅰテモテ1章15節

なぜなら、キリストイエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。ローマ8章2節

  

1.原罪を自覚する。

わたしはその罪人のかしらです。Ⅰテモテ1章15節

パウロが私は、罪人のかしらであると自分を言い表した時、これは、ほかの人と比較して語ったのではない。

頭というのは、体を支配するコントロールセンターととらえてもいい。

パウロは自身を顧みた時、過去において罪人であったと言い表したのではなく、かつても今も罪人のかしらだと言った。

パウロは、何か個別に律法に反したから罪人だと言ったのではない。

自分自身の存在そのものが罪人なのだと表現した。

罪人であるとは、神の御心に沿えない、どんなに御心に沿う生き方を選ぼうとしても、

神の道からはずれてしまう人の存在。一部分において神の律法を瞬間的に守れたとしても、全体におては常に神の基準に達することのできない人の存在。

 

人が生きていること自体が神の道からの的外れであるという自覚を持っているだろうか。

愛することの大切さを知っていても愛せない、

赦すことの大切さを知っていても許せない、

思い煩わなくてもよいと知っていても、日々おもいわずらう。

怒ってはいけないとしっていても怒ってしまう。

情と肉欲の思うままに生きてはいけないとしっていても、日々誘惑から離れられない。

 

してはいけないことはなんであるか知りながらしてしまう自分。

してよいことを知っていてもすることのできない自分。

 こんな肉体を持つ人の性、肉の弱さを日々自覚しているだろうか。

パウロが自身を私は罪人のかしらだと表現したのは、このような原罪と言われるような人の存在を言いたかったのではないか。

 

しかし、パウロを含めたユダヤ人は律法という神からの恵みを与えられている分、幸せである。何が良くて、何が悪いかを教えられているからである。

一方、日本人のような異邦人は、律法を与えられていない。

幼心に与えられた良心もいつのまにかマヒしてしまい、

それゆえ、初めから肉の思うままに生きている、自分の感情、この身、自我の赴くままに罪を犯し続けてしまう。いずれにせよ、神の怒りの中にある。

 

聖書が罪という時、これは、人同士の比較の話をしているのではない。

神の目、神の道、神の基準から人を見た時の話である。

神の基準という視点を覚えないと、私が罪人だと言われても、『私は何も法律違反をしていない。私は、そんな悪い人間ではない。良くもないが悪くもない』となる。

神の基準、律法と言っても、そもそも私はユダヤ人ではないから、律法などなにも関係がないと思ってしまう。

 

自分の行いと生き方が罪であり、その罪は神の怒りに遭い、それゆえ、罪から離れる必要があると自覚すること自体、神の助けがなくてはできない。聖霊という神の霊が人に臨んでこそ、初めて人は罪を自覚することができる

罪の概念をいくら説明しても、本来の人は理解できない。

 

人は罪を犯した結果、神から切り離されてしまった。

そして、人の本質である人の霊魂は死んだ状態になってしまった。

人は霊魂は死んだ状態のままこの世に生まれてくる。(日本人にも分かりやすいように霊ではなく、霊魂と言っている。)

そして、神が定められたその人の寿命分だけ与えられている肉体の命の量に従ってひとは生きている。しかし、その命はやがて尽きる。

 

2.原罪の赦し。

人が、罪を犯しながらしか生きることができない。常に肉欲の弱さを抱えながら生きていることに気が付きながら多くの人は生きているのではないか。大人になるということはそういうことかもしれない。

その中で、少しでも良い生き方を選択していこうとする人とあきらめて欲望のまま、自己の欲するままに生きる人とに分かれてくるのかもしれない。

 

少しでも良い生き方をしようと聖書を読むとそこには、イエス様が最高の人の倫理と言うべき山上の教えも載っている。

しかし、この山上の教えを自ら実践しようとすれば、すぐにつまずいてしまう。

 

人は罪を犯した結果、神から切り離されてしまった。罪は、神ととの交わりを遮断する。

それゆえ、神から来る永遠の命を失ってしまった。それゆえ、人は死ぬ。

神との交わりを回復させるためには、罪が取り除かれなければならない。

しかし、人は自分自身で罪を取り除くことができない。それは人の存在そのものが罪(原罪)であるから。

 

このことを人以上によく知っている神様は、人の罪を取り除くために、

救い主をこの世界に送られた。それが、イエス・キリスト

 

人はどれほど努力しても自分自身を救えない。自分に自分の罪を取り除くことはできない。

 

神様は、このような絶望的な状態にある人に救いの手を差し伸べられている。

神は、罪のないキリストをこの世に送り、イエスとしてこの地上を歩まれ、33年の生涯の最後にイエスを十字架につけ、すべての人の罪の身代わりとして十字架の上で人の罪を処罰された。

神は、御子キリストの十字架の死をもって、罪人である人のすべての罪を帳消しにされた。

それゆえ、誰でも、このキリストを自分の罪からの救い主として受け入れる者は、その罪がゆるされるという約束を与えた。

 神様が送られたキリストの手を握りさえすれば、キリストがあなたを罪の中から引き揚げて下さる。

 3.罪を痛恨する。

罪に対する痛みを感じているか。感じることのできた者は幸いである。

パウロは、自身が、ユダヤ人のエリートであり、神に熱心であり、永遠の命を得る資格あると本気で信じ、クリスチャンを迫害していた。しかし、その彼の生き方が、完全に間違っていたこと、神を信じている、神を愛していると自負しながら、実は神を迫害し、神を敵としていたことを教えられた時、罪に対する痛みで彼は心が張り裂けそうであった。いや言葉では言い表しがたい痛恨の極みであった。

このような自分の罪を赦すために、イエス・キリストを迫害していた自分をゆるすために、イエス・キリストは十字架につき、パウロの犯したすべての罪を帳消しにしてくださった神の偉大な本当の愛に触れたパウロは変えられた。

 

罪を心から悔いることのできる者は幸いで、イエスキリストの十字架の愛を知る。

 4.いのちの御霊の原理によって生きる。

 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その善い行いをもあらかじめ備えて下さったのです。エペソ2章10節

 パウロがガラテヤ人への手紙で、彼らを愚かなガラテヤ人よ。と叱責したのは、

彼らが、良い行いに生きるためにまた肉の力を用いようとし、的外れな生き方をし始めたからである。

パウロは、自身を罪人のかしらだと言ったのは、今なお、自分の肉の中には、良い行いをする力がないという徹底的な罪の自覚からそういったに違いない。

しかし、救われたガラテヤ人クリスチャンにはまだ、その自覚に乏しかったのであろう。

 

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。ガラテヤ3章1,3節

 

 

神様は、イエスキリストを信じ、罪赦され新しく生きる者となったクリスチャンに、新しく良い行いをして歩むための力も用意されていた。

それが、いのちの御霊の原理である。

 なぜなら、キリストイエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。ローマ8章2節

いのちの御霊の原理によって生きるためにはどうしたらよいか。

いのちの御霊の原理に歩む力がすでに与えられていると信じることである。

いのちの御霊によって満たされるように祈り求め、与えられたと信じながら日々生きる事である。

そのとき、愛せなかった人が愛せるようになり、

許せなかった人が許せるようになり、

怒りから解放され、

情欲から解放され、

自己憐憫から解放され、

傲慢から解放され、

不安から解放され、

様々な偶像礼拝からも解放されるようになっていく。

一度にすべてからは解放されないかもしれないが、

根気よく信じ続けることによって、いつのまにか少しづつ、

自分は変えられていくことに気が付くようになる。

 

パウロはアジアの教会の人々に自身も体験していったこのいのちの御霊の原理によって生きることを力強く書き記し、伝えていった。

 

2020.8.9 茅ヶ崎集会メッセージ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはすべての者が、父を敬うように子を敬うためです。ヨハネ5章23節

わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、私自身を彼に現します。
                                     ヨハネ14章21節。

ヨハネ5章18節のユダヤ人の批判に対し、イエス様自らがご自身と父なる神との関係について解き明かされます。

概観

1.父なる神と御子の関係 19節から20節

2.父なる神が御子に委ねられたもの 21節から22節

3.人に求められる御子に対する態度 23節から24節

4.人に対する御子の応答 25節から28節

 

1.わたしを見た者は、父を見たのです

御子イエス様は父なる神様のなさることをすべて見ておられ、父なる神様と全く同じ振る舞いを為されます。それゆえ、イエス様の姿、行い、言葉、態度、歩みのそのすべては父なる神様を表しています。

ヨハネ1章18節で『いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである』、

ヨハネ14章9節『わたしを見た者は、父を見たのです』

とあるとおり、私たちは、父なる神がどのような方であるかを知るためには、御子を見ればよいのです。

 

エス様と父なる神様との関係を見るときに一番重要なことは、父なる神は、御子をこよなく愛しておられたことです。御子を愛する愛のゆえに、父はご自身のすべてを御子にお示しになりました。御子は、御父が自分を愛して下さっているゆえに、父なる神のなさるすべての事をなさいました。

父なる神様と御子イエス様は、いつも愛の中に交わりを保たれていることをイエス様は証されます。

 

2.御子はいのちとさばきの権を委ねられる。

父なる神様は御子を愛している故に、ご自身の神としての特権のすべてを御子に委ねることを善しとしました。

①御子もいのちを持ちました

②すべてのさばきを御子に委ねられました。

 

3.御子を敬うように。

  御子イエス・キリストは私たちの礼拝の対象です。

  父なる神は御子を敬うことを人に委ねられました。

御父と御子が一つであることを教えられ、

御子を愛することは御父を愛することであり、

御子を信じることは御父を信じることであり、

御子に従うことは御父に従うこと、

御子に聞くことは御父に聞くことであるということを悟るとき、

三位一体の神は別々ではなく、

私たちは、礼拝の時、心からイエス様に礼拝を捧げれば十分であることを知ることが出来ます。御子イエス様への礼拝が捧げられる時、御父は喜ばれ、また聖霊も喜ばれます。

御子イエス様を敬うことを心から学んでいきたいと願います。

 

4.御子を通して。

人はいかなる場合でも御子を通して初めて、御父に近づくことができます。御子を通して父なる神を信じる者は、永遠の命を持ち、裁かれず、死から命に移ります。

御父を信じていると主張していても、御子を信じようとしないなら、それは御父を信じてはいないのです。

ユダヤ教イスラム教も日本神道も、他の宗教も私たちは神を信じていると主張しますが、聖書が言っていることは、真の神を信じているなら、神が御子を世に遣わし、

御子イエス・キリストのことも同時に信じるはずであること。

御子を信じることができていないならば、それは真の神を信じてはいないということです。異端との区別は御子(人の子)を真の神と信じてるかいないかで区別ができます。

 

聖霊によらなければ、だれもイエスを主ということはできない』と第一コリント12章3節にありますが、

人がイエスを主と呼ぶことができて初めて、その人は三位一体の聖書の神を信じていると言えます。

 

ですから、御子を信じていれば救われ、さばきにあうことなく、永遠の命が与えられます。逆に言えば、御子を信じる以外に救いはありません。

 

2020.7.26 茅ヶ崎集会メッセージ要旨

 

わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。ヨハネ5章17節

ヨハネ5章1節から18節 べデスタの池の病人のいやし

この18節までの物語のテーマは、病人の癒しにあるのではなく、イエス様がこの38年間病気であった者を安息日に癒したことを通して、ユダヤ人からの殺意、迫害を決定的にした出来事の発端となったことにあると思われます。この癒しの物語の後半19節以降、

ヨハネはイエス様が神の子であり、さばきの権能を授けられた救い主であることを証言していきます。 

 

ユダヤ人がイエス様を殺そうという思いに至る経緯とその理由

ヨハネは、イエス様が救い主であることを証していく中で、イエス様のどんな言動により、ユダヤ人との対立が始まり、十字架の処刑に至ったのかをしっかりと伝えようとしています。

その中心は、2点。

  • エス様が安息日を守らなかったという主張
  • エス様が、自分を神と等しい者とされたという主張。

結局、彼らはイエス様が神であり、救い主であり、安息日を制定した主であることを悟れませんでした。

安息日ユダヤ人の口伝律法においては、安息日を守ることはユダヤ人の最大の責務、務めとされていました。そのために、1500にもわたる細則が定められていていました。モーセ十戒ではただ一つの律法が1500にも分化されてしまっていたのです。。

安息日がなぜ大切なのか。それは、エジプトで奴隷として生きていた時、彼らに安息はなかった。モーセが奴隷から解放したのち、彼らにはじめて奴隷にはない安息日が与えられた。安息日ユダヤ人にとって奴隷から解放されたことの記念であり、シンボルです。ですから、ユダヤ人の生活の中で安息日を大切にすることは自分たちのアイデンティティーを大切にすることであり、決して悪いことではありません。

また、彼らの言い伝えでは、すべてのユダヤ人が安息日を守ることができれば、救い主が到来するという言い伝えを持った。ゆえに、パリサイ人達は、安息日を人々に守らせる宗教警察官のようになっていました。

1:1節から9節 救い主の到来の知らせ。

救い主であるイエス様の憐みの御業が現れた。

なぜ、病人たちがこの池の周りに大勢横たわっていたのか。

それは、この池の水が動くときに真っ先に池に入った人は癒されるという言い伝えがあったから。

五つの回廊はモーセの律法を現わしている。べデスタの意味は、憐みの池、慈しみの池、恵みの池という意味である。

病人たちは、神の憐みを待ち望み、この池の周りに横たわっていた。しかし、誰一人、憐みを受けて癒される者はなかった。

この38年間、横たわっていた人だけでなく、多くの人々が癒される機会もなく横たわっていた。ところが、イエス様が来られた時、この人の上にほんとうに神の憐みの業が現れた。

彼が歩き出せたのは、まったくの神の憐みである。

彼にははじめ信仰もなく、ただ自身の不遇を嘆いている、他人をのろうだけの人生であった。

エス様は、このような者さえ憐み、信仰を与え、また癒しを与えた。

38年間は、イスラエルの民が荒野をさまよった期間。

申命記2章14節『カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は38年間であった。(約束の地に入れず、荒野をさまよってきた期間と一致する)

 

『歩けなかった者が歩き出す』という表現は、救い主の到来を非常に豊かに象徴している。

イザヤ35章3節から6節

3節:弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。

神が来て、あなたがたは救われる。

5節:そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。

そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。

 

マタイ11章5節、6節

盲人が御、足苗が歩き、来病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しいものには、福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。

 

マタイ15章31節

それで、群衆は、おしがものを言い、

不具者が治り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、

驚いた。そして、彼らはイスラエルの神をあがめた。

 

普通はこのような奇跡が起これば人々は驚き、イスラエルの神をあがめる。しかし、ユダヤ人たちは、安息日を破ったことばかりを問題にした。

2:10節から15節 癒しよりも罪の悔い改めを主は願われている。ご利益信仰への警告。

ここの箇所は、ユダ人たちが癒された人を喜ばず、神をあがめることもせず、安息日の口伝律法違反としてこの男をとがめようとした彼らの態度も問題であるが、

それ以上に、ヨハネが伝えようとした問題点、警告、そしてイエス様の望みがどこにあったのかに気が付くことが大切。

それは、癒された男は、罪を悔い改めて、神に立ち返ることに至らなかったこと。イエス様を主として、信じなかったこと。

信じなければ、どれだけいやされようとも神の御業がその人に現れようとも、

最後には滅びが待っている。こと。

彼は、癒されたにも関わらず、神を喜ぶに至らず、自分の保身のために、ユダヤ人におもねった。対照は、ヨハネ9章のシロアムの池で癒された盲人。

 

エス様に癒されたからといって、その人が本心から神に立ち返っているわけではない。

今までの自分の生き方が、自己中心で神を人生の中に迎え入れていなかったことに気が付き、そのような人生を悔い改めて、神中心の人生に方向転換すること。これが大事。

エス様の癒しにとどまらず、イエス様ご自身を救い主として自分の中に迎えること。このことがなければ、その人にはもっと悪いことが起こるという警告を覚えておく必要がある。

3:16節から18節 ユダヤ人たちがイエスを迫害しはじめた理由

彼らの言い分は、

  • 安息日を破った
  • 自分を神と等しい者とした。

でした。しかし、真実は真逆でイエス様こそ、安息日の主であり、

神であり、また同時に父なる神に対して御子としての位をお持ちの方であった。

結論:イエス様はまことの神であり、神に等しい方であり、父なる神様が今なお働いておられるように、イエス様も働いておられる。

 主を褒めたたえます。

2020.7.12 茅ヶ崎集会メッセージ要旨。