主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

【禁欲と喜び】 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。ガラテヤ書5章22,23節

神さまがゆっくり行こうと言われるならゆっくり行けばいい、一回止まろうと言われるなら止まっていいのです。遅れてもいいのです。

クリスチャンを導く神の霊の働きには、後ろにさがったり遅れたりするという法則があるように思われる。

 

メッセージ音声リンクです。

https://www.christ-hour.com/archive/mp3/427_0.mp3

 

他教会の牧師のメッセージですが、

今の私に必要なメッセージでしたので、覚書として引用させていただきました。

石原知弘によるメッセージ

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。ガラテヤ書5章22,23節

 

 

私は数年前までオランダでキリスト教の勉強をしていたのですが、そのときに学んでいたテーマの一つが、「禁欲と喜び」ということでした。そこで今日と来週、「禁欲と喜び」ということについてお話したいと思います。

今お読みした聖書の言葉は、クリスチャンの生活がどういうものであるかを教えてくれています。その中に、「喜び」、そして、「節制」という言葉がありました。節制を、禁欲と言い換えてもいいかと思います。私は、この禁欲と喜びというのは、どちらもクリスチャンの生活にとって大事なもので、いわば車のブレーキとアクセルのようなものではないかと思っています。喜びというアクセルの力で前へ進み、禁欲や節制というブレーキによって安全に走ることができるわけです。

まず今日は、禁欲について考えてみたいと思います。皆さんの中には、キリスト教に禁欲的なイメージを持っておられる方も多いかもしれません。してはいけないことがいろいろありそうだ、お酒は飲んでもいいのだろうか、たばこをどうなのだろう、というふうに。私には妻も娘もいるのですが、ときどき、「牧師さんも結婚していいのですか」と聞かれることがあります。これも、キリスト教は禁欲的という一つのイメージかもしれません。

確かに聖書では、してはいけないことが教えられていて、その意味では禁欲的です。ただしそれは、罪や悪いことに対してです。今日お読みした聖書の箇所の少し前に、罪のリストと言えるようなものが書かれています。「姦淫、わいせつ、好色」とか、「仲間争い、ねたみ、泥酔」といったことが、してはいけないこととして挙げられています。ですから、例えば、お酒を飲むということは、それ自体がいけないわけではありません。飲み過ぎること、自分を見失うほど泥酔してしまうことはよくないということです。ですからそこではブレーキが必要なのです。

ただ、それにしても、禁欲と言うと、ちょっと堅苦しいというか、あるいは、やっぱり努力や忍耐が必要で、自分にはちょっと無理かな、というふうに感じられるかもしれません。しかし、聖書における禁欲というのは、そういう何か我慢を強いることではありません。聖書が教えるのは、神さまの働きに期待するということです。神さまに働いていただき、神さまの働きに身をゆだねるために、あえて自分のブレーキを踏むということです。ですから、それは、決して堅苦しい生き方ではなく、むしろ神さまから生きる力や希望を与えていただくことなのです。

20世紀の前半にオランダで活躍した牧師で、ノールトマンスという人がいます。生涯小さな村の牧師として働きながら、オランダの教会に大きな影響を与えた人です。このノールトマンスが禁欲ということを強調したのですが、その禁欲とはまさに、神さまの働きにゆだねるということでした。

旧約聖書に出てくるモーセの生涯をたどりながら、ノールトマンスがクリスチャンの生き方について記した『遅れ』という題の文章があります。モーセは、一度若い頃に、自分自身の思いで神さまのために立ち上がろうとしたのですが、そのときはうまくいきませんでした。その後40年が経ってから、今度は神さまご自身に呼び出され、モーセは神さまのために働くことができました。このモーセの経験について触れた後で、ノールトマンスは次のように書いています。「クリスチャンとは一体どういう者であろうか。いろいろな答え方があると思うが、こう言うことができるのではないだろうか。クリスチャンとは、人生がそう簡単にはいかないということを知っている者のことである。クリスチャンを導く神の霊の働きには、後ろにさがったり遅れたりするという法則があるように思われる。古代の神学者アウグスティヌスはこれを、弓矢を引くことにたとえている。まず後ろに引かなければ、前へは飛ばないのである。最も遅れた人生こそ、最も遠くまで行くのである。これこそ聖霊に導かれる生き方である」。このように記しています。

実はノールトマンス自身、学生時代に病気で5年間も休学を余儀なくされ、働きにつくのが遅れるという経験をしていて、これは、そのことを振り返りながら書いた文章ではないかと言われています。そして、ノールトマンスは、今の文章に続けて、こういう生き方が「禁欲」であると言うのです。自分の思いで突き進むのではなく、神さまにゆだねるということです。そのために遅れることがあってもいい、むしろそれこそがクリスチャンの生き方であり、禁欲であるというわけです。堅苦しい、無理な生き方の勧めではありません。そもそも人生は難しく、簡単にはいかないものです。しかし、神さまにゆだねるなら、困難も乗り越え、生きていくことができるのです。

クリスチャンの生活にとって、禁欲とはブレーキのようなものと言いました。それは一つには、罪や悪という危険な横道にそれそうになったとき、しっかりと踏みとどまるためのブレーキですが、それだけでなく、飛ばし過ぎのときにも、私たちはやはりブレーキを踏むのです。ゆっくりでいいからです。クリスチャンとして生きるということは、スピードを競うことではありません。神さまに働いていただき、神さまに導かれて行くことです。神さまがゆっくり行こうと言われるならゆっくり行けばいい、一回止まろうと言われるなら止まっていいのです。遅れてもいいのです。禁欲というブレーキは、最高のドライバーである神さまの運転に身をゆだね、神さまと共に人生を歩んで行くためのものなのです。

 

この記事は以下の番組からの引用です。https://www.christ-hour.com/