ヨハネ5章1節から18節 べデスタの池の病人のいやし
この18節までの物語のテーマは、病人の癒しにあるのではなく、イエス様がこの38年間病気であった者を安息日に癒したことを通して、ユダヤ人からの殺意、迫害を決定的にした出来事の発端となったことにあると思われます。この癒しの物語の後半19節以降、
ヨハネはイエス様が神の子であり、さばきの権能を授けられた救い主であることを証言していきます。
ヨハネは、イエス様が救い主であることを証していく中で、イエス様のどんな言動により、ユダヤ人との対立が始まり、十字架の処刑に至ったのかをしっかりと伝えようとしています。
その中心は、2点。
結局、彼らはイエス様が神であり、救い主であり、安息日を制定した主であることを悟れませんでした。
安息日、ユダヤ人の口伝律法においては、安息日を守ることはユダヤ人の最大の責務、務めとされていました。そのために、1500にもわたる細則が定められていていました。モーセの十戒ではただ一つの律法が1500にも分化されてしまっていたのです。。
安息日がなぜ大切なのか。それは、エジプトで奴隷として生きていた時、彼らに安息はなかった。モーセが奴隷から解放したのち、彼らにはじめて奴隷にはない安息日が与えられた。安息日はユダヤ人にとって奴隷から解放されたことの記念であり、シンボルです。ですから、ユダヤ人の生活の中で安息日を大切にすることは自分たちのアイデンティティーを大切にすることであり、決して悪いことではありません。
また、彼らの言い伝えでは、すべてのユダヤ人が安息日を守ることができれば、救い主が到来するという言い伝えを持った。ゆえに、パリサイ人達は、安息日を人々に守らせる宗教警察官のようになっていました。
1:1節から9節 救い主の到来の知らせ。
救い主であるイエス様の憐みの御業が現れた。
なぜ、病人たちがこの池の周りに大勢横たわっていたのか。
それは、この池の水が動くときに真っ先に池に入った人は癒されるという言い伝えがあったから。
五つの回廊はモーセの律法を現わしている。べデスタの意味は、憐みの池、慈しみの池、恵みの池という意味である。
病人たちは、神の憐みを待ち望み、この池の周りに横たわっていた。しかし、誰一人、憐みを受けて癒される者はなかった。
この38年間、横たわっていた人だけでなく、多くの人々が癒される機会もなく横たわっていた。ところが、イエス様が来られた時、この人の上にほんとうに神の憐みの業が現れた。
彼が歩き出せたのは、まったくの神の憐みである。
彼にははじめ信仰もなく、ただ自身の不遇を嘆いている、他人をのろうだけの人生であった。
イエス様は、このような者さえ憐み、信仰を与え、また癒しを与えた。
38年間は、イスラエルの民が荒野をさまよった期間。
申命記2章14節『カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は38年間であった。(約束の地に入れず、荒野をさまよってきた期間と一致する)
『歩けなかった者が歩き出す』という表現は、救い主の到来を非常に豊かに象徴している。
イザヤ35章3節から6節
3節:弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
神が来て、あなたがたは救われる。
5節:そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。
マタイ11章5節、6節
盲人が御、足苗が歩き、来病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しいものには、福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。
マタイ15章31節
それで、群衆は、おしがものを言い、
不具者が治り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、
驚いた。そして、彼らはイスラエルの神をあがめた。
普通はこのような奇跡が起これば人々は驚き、イスラエルの神をあがめる。しかし、ユダヤ人たちは、安息日を破ったことばかりを問題にした。
2:10節から15節 癒しよりも罪の悔い改めを主は願われている。ご利益信仰への警告。
ここの箇所は、ユダ人たちが癒された人を喜ばず、神をあがめることもせず、安息日の口伝律法違反としてこの男をとがめようとした彼らの態度も問題であるが、
それ以上に、ヨハネが伝えようとした問題点、警告、そしてイエス様の望みがどこにあったのかに気が付くことが大切。
それは、癒された男は、罪を悔い改めて、神に立ち返ることに至らなかったこと。イエス様を主として、信じなかったこと。
信じなければ、どれだけいやされようとも神の御業がその人に現れようとも、
最後には滅びが待っている。こと。
彼は、癒されたにも関わらず、神を喜ぶに至らず、自分の保身のために、ユダヤ人におもねった。対照は、ヨハネ9章のシロアムの池で癒された盲人。
イエス様に癒されたからといって、その人が本心から神に立ち返っているわけではない。
今までの自分の生き方が、自己中心で神を人生の中に迎え入れていなかったことに気が付き、そのような人生を悔い改めて、神中心の人生に方向転換すること。これが大事。
イエス様の癒しにとどまらず、イエス様ご自身を救い主として自分の中に迎えること。このことがなければ、その人にはもっと悪いことが起こるという警告を覚えておく必要がある。
3:16節から18節 ユダヤ人たちがイエスを迫害しはじめた理由
彼らの言い分は、
- 安息日を破った
- 自分を神と等しい者とした。
でした。しかし、真実は真逆でイエス様こそ、安息日の主であり、
神であり、また同時に父なる神に対して御子としての位をお持ちの方であった。
結論:イエス様はまことの神であり、神に等しい方であり、父なる神様が今なお働いておられるように、イエス様も働いておられる。
主を褒めたたえます。
2020.7.12 茅ヶ崎集会メッセージ要旨。