主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。イザヤ53章3節

キリスト教信仰の中核は、イエス様の十字架。

十字架にあるのはみじめさの極み。

ヒーローになれなかった神。

自分を最後まで救わなかった神。

 

人が人であるのは皆が自分の生きている意味を問うことができるところにあると思います。

物事が順調に進んでいる時は、あまり生きる意味を問わないでも済むかもしれません。

しかし、

病を負う時、

そんなに悪いことをしていないのに、いじめられる時、

さげすまれる時、

迫害を受ける時、

身近な人の死を経験するとき、

苦しみから逃れられない時、

お腹が空いて死にそうなとき、

生きているがゆえに受けざるおえない数々の苦しみが

押し寄せてくるときほど、

私はなんのために生きているのだろうか、

生きていていいのだろうかと問いたくなると思います、

 

辛くて死にたいと思う。

生きている間に何か答えが見つかればいいが、

答えが見つからないままに肉体の死を迎えてしまう厳しい現実に

私たちは直面することがあります。自分だけが例外ではいられない。

 人はなぜ苦しまなくてはいけないのか。

苦しみはどこから来るのか、

苦しみからの解放はあるのかと苦しみの中にある人は誰かに問いかける。

人は、名も知らない神にその答えを求め、叫ぶ。

 

キリスト教が人の普遍的な疑問に応じた答えは、

あなたが呼び求めた神は人の姿を取り、すべての人の苦しみを経験しながら自分を最後まで救わず、十字架の上で死を迎えたという。

 

イザヤ書53章には、イエスキリストの苦難の生涯が描写されています。

彼には、人が見とれるような姿は無かった。

肉体的な容姿で人々からさげすまれている人はいませんか。交通事故に遭い、足を失ってしまった人はいませんか。脳梗塞にかかり、手足が不自由になってしまった人はいませんか。

アトピーで皮膚がぼろぼろになり苦しんでいる人はいませんか。

彼には、輝きもなかった。

成績がいつもびりで学校で一度も褒められたことが無く、落ち込んでいる人はいませんか。パッとせず、周囲の注目を浴びることもなく、劣等感の固まりの人はいませんか、

他の人よりも優れた所がなく、何をやってもうまくいかないと落胆している人はいませんか。

彼はさげすまれていた。

学校や職場で、理由もなくいじめられて、陰口、悪口、仲間外れにされ、恥ずかしい思いをさせられ、

みじめさの中で苦しみ、死にたいと思っている人はいませんか。

彼は病を知っていた。

病気があって、苦しんでいる人はいませんか。他の友達と同じように元気に遊んだり、走り回ったりできずに、病室で外を眺めているしかなくて、寂しい思いをしている人はいませんか。

癌や、不治の病で、描いていた人生をあきらめなくてはならなくなった人はいませんか。

彼は悲しみの人だった。

悲しみはありませんか。お父さん、お母さんを亡くしてしまった。

愛する子を失ってしまった人はいませんか。

お父さん、お母さんに優しくされたことがない。

御飯をお腹いっぱい食べたことがない。

戦争で家族が殺された。恐ろしい思いをした人はいませんか。

今、独りぼっちで悲しんでいる人はいませんか。

 

エス様は、このような様々な人の苦しみや悲しみ孤独、迫害、飢えと渇き、病を経験しながら生きられた方でした。

あなたが、神様はあなたはどうして私に苦しみを与えられたのですか問う時、

その神様はイエス様の姿であなたの苦しみを経験して下さるという答えを用意して下さいました。

エス様は苦しみを負いながら、その苦しみが取り去られることなく、十字架で死なれました。

なんてみじめな生涯であったことでしょう。こんな人生は送りたくないと思うことでしょう。どこかで奇跡が起こって、生きている間に苦しみが取り除かれたらどんなに良いことでしょうか。

しかし、イエス様にも奇跡は起きず、十字架の上で息を引き取られたのでした。

 

ただ、ここで話が終わってしまっては、キリスト教に救いはありません。いったいどこに救いがあるのでしょうか。

『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために、刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。』イザヤ53章5節

ここに書かれている内容の意味は、

エス様が苦しんだのは私たちの苦しみを負うためだったことと、

苦しみを負うって下さったがゆえに、私たちは苦しみから解放されて癒され、平安が与えらるというです。

 

ではどのようにして苦しみを負って下さるのでしょうか?

ここにキリスト教ならではの救いの方法があります。それは、信じるという方法です。

エス様が十字架にかかり苦しみ死なれたのは、私のためであったと信じる時にそのとおりになるという不思議な方法です。

信じるとは、イエス様の苦しまれたのは、私の苦しみを負うためだったのかを気が付き、納得することだと思います。今まで、イエス様の十字架の苦難と私が今受けている苦難には何の関係もないと思っていたのに、

エス様の十字架の苦難と今受けている私の苦難が心の中で結びついたということです。

ではいつ、苦しみから解放されるのでしょうか。

一つは、信じたその時から。信じたその時から、今まで苦しみ、悲しみ、不条理と思えた中にあっても、平安と喜びが与えられます。

二つには、最終的には死んだ後に。

キリスト教はイエス様の十字架の死で終わりではなく、イエス様は死んで三日目によみがえります。キリスト教の救いのゴールは十字架の死ではなく、死からの復活にあります。ですから、死は終わりではありません。

エス様が私の苦しみを負って死んでくださったと信じることのできる人には、

自分の苦しみはイエス様の体の上に置かれ、自分は楽になります。

そして、

エス様が復活されたので、あなたもイエス様の復活の力を受けて新しく生きることが出来るようになります。

新しく生き直すことができたらどんなにいいだろうと思いませんか。

やがて、だれでも肉体の死を迎えます。

けれども、イエス様を信じる者は、復活の命と復活の体をいただいて神様の御国で永遠に生きるようになります。

神の御国では、

朽ちることの無い体が与えられます。

皆が輝きます。

皆が尊ばれます。

病は消え去ります。

悲しみも消え去ります。

苦しみからも解き放たれます。

神の御国に孤独はありません。

 

神様は、聖書の次の言葉であなたを支えています。

『泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。

息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある。』

                           エレミヤ書31章16-17節

2023 .3.25  片瀬山 受難節メッセージ

 

 

 

 

 

 

 

安息日は人間のために設けられたのです。マルコ2章27節

人の子は安息日にも主です。マルコ2章28節

エス様は律法の終焉と神の国の完成である安息の到来について告げる。

 

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

                             黙示録21章3,4節

マルコによる福音書の大きなテーマは、『神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』であり、わたしについて来なさい。である。

神の国がイエス様の宣教とともに始まっていること、来たことを弟子たちの前に示されてきた。同時にそれは、福音書を読む教会にも示されている。

神の国が来たことを教えるために、

神の業として悪霊を追い出し、病人を癒し、汚れを清められた。

神の言葉には罪を赦す権威があることを示された。

また、神の国は憐みに満ちた神の御人格であることを示すために、イエス様は罪人の友となり、罪人を救うために来られたことを示された。

 

ここで、イエス様が来られたことの最終的な目的についてイエス様は示し始める。

最終的な目的とは神の安息である。

 

安息とはどんな状態なのか。

達成感は心地よいものである。

溜まっていたしなければならなかった仕事がすべて仕上がった時、私たちは安堵感と喜びを感じる。

散らかっていた部屋がすっきり片付いた時、なによりも気持ちがすっきりし、

おいしいお茶とケーキが食べたくなる。

流しに溜まっている食器が片付いた時、

またスポーツの世界で苦しい戦いの後、優勝した時の達成感、喜び、そして安堵感。

オーケストラが曲を完成し演奏し終えたとき。

畑の収穫がすべて終わった時、

どれもこれもしなければならなかったタスクがすべてなし終えたとき、そしてゴールに行きついた時、私たちは喜び、安堵、平安、満足を得る。

 

神の安息とは何でしょうか。

それは、神がすべての御業をなし終えた、神ご自身が満たされた時です。

神様はこの地に、神と人が共に住み、もはや涙も渇きもない、神の創造の時のような世界を再び創造するという神の目的が成し遂げられる時が神の安息です。

エス様は、まさにこの安息を成し遂げるためにこの世の終わりに遣わされた救い主なのです。

エス様が来られたことにより、安息がすでに始まったとも言えるのです。

 

弟子たちがイエス様と共に歩いている過ごしているという姿は神の国においてイエス様が神の民と共に住むことの予表なのである。

 

このことを知るとき、イエス様と律法学者たちとの問答を理解することができる。

エス様がすでに共に歩まれているので、ーこの状態がまさに安息であるー、もう断食する時ではなく、喜び祝うときなのである。

エス様がすでに共に歩まれているので、飢える必要はなく、今は飢えを満たすためにパンを食する時なのである。

新しい着物が用意されているので、古い着物は破棄される時なのである。

律法学者たちは今目の前に律法の完成者であり、安息日の主人である神の子、救い主がいることに気が付いてない。だからこそ、イエス様は彼らの思い違いを正すためにも、心を覚醒させるためにも、あえて大げさなふるまい(彼らがしてはいけないとしていた決まり事を破るという行為)をされた。

 

人の子は安息日にも主です。

エス様は神の国が完成されたその世界において主人としておられる。

ゆえに、安息が訪れたその日、すなわち真の安息日において主人なのである。

私たちは今、神の国が来たとすでにイエス様と共に歩んでいることに安息を覚えると同時に、霊肉ともに安らぎを受ける御国の完成の時を望み仰いで歩んでいる最中である。

 

2022.11.19 茅ヶ崎

 

 

 

誰に仕えるか。主人を持つという生き方。マルコ2章14節


エス様についていくとはイエス様ご自身を目的にするということです。

エス様の働きをするということではありません。

どんな働きをするかどうかはイエス様についていく中で導かれていくものです。
 

エス様は道を歩いている中、大勢に人を見かけたはずですが、なぜレビだけに目を留め、従うように呼び掛けたのか。なぜレビはイエス様の呼びかけにすっと立ち上がってイエス様に従っていくことができたのでしょうか?

アルパヨの子レビは取税人という職業を持っていました。

職業はありましたが、未だ誰に仕えるかという主人を持っていませんでした。

彼は生計を立てるためには、人々に嫌われようとローマの手先と言われようとも仕事を続けなくてはなりません。

しかし、彼の心の内には仕事の意味、生きがいを見出すことのできない虚無感、ローマの手先、罪人の仲間と後ろ指さされる社会的な疎外感。さらにローマ皇帝に従わなくてはならないという民族的屈辱感。そしてユダヤ人にとって一番のあこがれである永遠のいのちを得ることができないという絶望感をもっていたことでしょう。

しかし同時に、彼は心の内に、真に従うにふさわしい主人となる偉大なる真の王なる方を強く求めていたのではないでしょうか。

エス様は道を歩いている中、彼の内に真の主を求めてやまない飢え渇く心をご覧になりました。

エス様に呼びかけられた時、彼はイエス様こそわが師、生涯を通して仕えるにふさわしい主人であることを瞬時に悟り、惚れ込み、喜んで立ち上がってイエス様に従ったのではないでしょうか。

彼はイエスという方に自身の天職を見出したに違いありません。 

わたしについて来なさい。マルコ2章14節

『イエス様の愛(真)弟子になりなさい。』

1.私は高校の教員を辞め、流道を通して福音を伝えていこうと決め、聖神館流道の内弟子となり、道場に通いつめていました。

しかし、イエス様ご自身に出会い、イエス様を師として従っていくように導かれ、

流道の業によって福音を伝えるのではなく、直接、伝道を通して福音を伝えるように導かれるようになりました。

上に掲げた言葉は道場を離れる時に私の信仰の師である合気道の寺田気山先生からいただいた最後の言葉です。

私はまだその時、はっきりと道場から離れることは思っていませんでしたが、師匠はすでにそのことに気が付いていて、はなむけの言葉として、また、師匠の真の心として伝えてくれました。

数年後に師匠が60歳の若さで天に召されてしまい、師匠と直接会ったのはこの言葉をいただいた時が最後でした。

道の世界では同時に二人の師匠に仕えることは許されないことです。

他の師に教えを乞うならば、けじめをつけてお世話になった師匠からは離れなれければなりません。

エス様をわが師としイエス様についていくと決めたならば、他の人を師と仰ぐことはできなくなります。

生前より寺田先生はイエス様についていきなさい。私はただみんながイエス様についていけるようにお手伝いしているだけだからと言われていました。

ですから、私が道場を離れてイエス様に直についていく道を選んだことを喜んで下さっていたのだと思います。

そのころの私は未熟で師の心も分からず数々の無礼を働いたことを感謝とともに、ここにお詫びしたいと思います。

誰についていくのか?初心に帰り、この問いかけを忘れず、主ご自身についていくことをあらためて覚えさせていただいています。

2.罪意識に嘆くものを招くイエス

カペナウムの町には大勢の人がいました。イエス様は道を歩きながらいろいろな人々をご覧になったでしょう。

 しかし、どうしてアルパヨの子レビだけに目が留まり、彼を招いたのでしょうか。その理由は、次のみ言葉から察することができます。

『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』

                              マルコ2章17節

13節から17節までの物語の流れの全体を俯瞰すると、アルパヨの子レビはイエス様が招く罪人の代表人物として描かれていることを知ります。

エス様がレビを招いたのは、彼が罪人としての自覚があったからです。

 

アルパヨの子レビは、取税人という職業を持っていました。

彼は転職をしようとイエス様に従ったのではありません。

彼に職業はありましたが、未だ誰に仕えるかという主人をもっていませんでした。

彼は生計を立てるためには、人々に嫌われようと、ロマの手下と言われようとも仕事を続けなくてはなりませんでした。しかし、彼の心の内には、虚無感と疎外感が満ちていたことでしょう。

仕事の意味、生きがいを見出すことのできない疎外感、ロマの手下、罪人の仲間と後ろ指さされ、社会的な疎外感を味わうだけでなく、ユダヤ人にとって一番のあこがれである永遠のいのちを得ることができないという絶望感をもっていいたことでしょう。

彼の中に深い罪人意識があることを彼をご覧になり見抜いたからこそ、罪人を救うためにこられたイエス様は彼を呼んだのです。

 

医者を必要とするのは病人であるように、

まず自身が罪の病に罹っていることを知り、その罪の病を自身では治せないことを知り、

罪の病を癒す医師の助けが必要であることを認め、医師の下へ助けを求める必要があります。

 

医者と病人の関係を思うとき、レビが自身の罪という病にどう向かい合っていたのかを知ることができます。

 

3 誰に仕えるか。主人を持つという生き方。

エス様についていくとはイエス様ご自身を目的にするということです。

エス様の働きをするということではありません。

どんな働きをするかどうかはイエス様についていく中で導かれていくものです。

 

レビがなぜイエス様の呼びかけにすっと立ち上がってイエス様についていくことができたのか?

 

アルパヨの子レビは、取税人という職業を持っていました。

彼は転職をしようとイエス様に従ったのではありません。

彼に職業はありましたが、未だ誰に仕えるかという主人をもっていませんでした。

彼はイエスという方に自分の天職を見出したに違いありません。

 

若者はみなそうであるかも知れませんが、大学生の頃から職業選択についてはずいぶんと悩みを抱えていました。

自分にとって一番ふさわしい職業は何だろうかと訪ね求める中、内村鑑三の『天職と一生』という書物に出会い、職業を超えた自分にとっての天職は何かと日々探し求めるようになりました。

わたしが天職を捜し求め呻いている時、言い換えれば、自分の人生の目標を見出せず、

迷っていた時も、イエス様を信じていなかったわけではなかった。

すでに4年くらい前にイエス様が私の個人的な救い主であることを知り、公に洗礼を受けていた。

罪の縄目がひどく絡みついてはいたが、教会にも通い、聖書の言葉を喜んで聞いていた。

しかしなお、イエス様に私の天職を教えてほしいと祈り求めながら苦しんでいた。~そのころは私の一番ふさわしい職業のことを意味していたが~

 

エス様ご自身こそ我が嗣業、天職そのものであると教えられたのは、わたしが内弟子として生きるために、道場の近くに一人アパートを借りて住み、一人祈っているときであった。

エス様こそ私の嗣業そのものであり、イエス様ご自身ことわたしの生きる目的であることを啓示された。

その直前に私は自分の罪を教えられました。それは、神の御心を求めず、神に仕えることを目的としていない自分の心でした。

そのことを教えられる前は、私にとってのイエス様とは私の願いを実現するために助けてくれる方であって、未だ心の主人は自分であり、イエス様が主人ではありませんでした。

自分にとっての職業選択とは自分のしたいこと、自分を生かせること、自分の生きがい、などなど自分についての悩みであり、主ご自身を求めることとは程遠いことに気が付かされました。

 

アルパヨの子レビは、イエス様に呼びかけられた時、

エス様こそわが師、わが主、生涯を通して仕えるにふさわしい主人であることを瞬時に悟り、惚れ込み、喜んで立ち上がってイエス様に従ったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

荒野で叫ぶ者の声がする。マルコによる福音書1章2節から8節

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。マタイ5章6節

 

バプテスマのヨハネの生き方


1.聖書におけるバプテスマのヨハネの役割

律法から福音への架け橋となった旧約聖書最後の預言者。人々がイエス様を救い主として受け入れるための土台を用意した預言者

預言者は誰でもそうであるが、神から離れて生きている神の民に罪の悔い改めを求めて神に立ち返ることを語り続けた。
マラキの時代以降、預言者は現れず、民衆は悔い改めを迫る神の預言者の声を聴くことなく、律法学者たちの律法の教えを守ること、サドカイ派の教えに従い、動物の犠牲を神殿に捧げることにより、外面的な行為によって神の義を得ようとしていた。
しかし、真の預言者は人々の心の中にある不義を指摘し、罪の糾弾し、罪を悔い改め、罪から離れることを民衆に語り続けた。

ヨハネの役割は罪の悔い改めを勧めるだけでなく、
律法に示される救い主の到来の預言が成就する時が来た、
エス様が世の罪を取り除く神の子羊である(救い主)ことを明確に人々に指し示した預言者
まさに救いが来たことを民衆に明らかにした最後の預言者です。

神学的には律法を行うことにより救われる(永遠のいのちを得る)のではなく、
福音(イエスキリスト)を信じることによって救われる(永遠のいのちを得る)という新しい契約の時代が到来したという時代の架け橋となった預言者である。

2.ヨハネの生き方

義に飢え乾く者は満ち足りる。

 

ヨハネは荒野で叫ぶ者の声として生きていました。

荒野こそヨハネの生き方をよく言い表す場所ではないかと思います。


当時のローマの支配下にあるユダヤでは、ユダヤ人たちは大きく4つの宗派に分かれていました。
1)サドカイ派のようにローマの支配と妥協しながら伝統的な神殿礼拝の形式を司り社会的な地位を確保した人々。
2)反対に、パリサイ派律法学者たちのように神の律法(口伝律法)を厳格に守ることによってローマとの間に隔ての壁を作りユダヤ人のアイデンティティを守ろうとした人々。
3)あるいはエッセネ派のように、異国の支配から逃れるようにして社会から逃避し、砂漠や洞窟の中に隠れて律法に忠実に生きることを求めて、
共同生活をすることで自分たちのアイデンティティを守ろうとした人々。
4)熱心党などはローマに対してあくまでも武力で対抗する在り方で自らのアイデンティティを示しました人々。
そしてどの宗派にもかかわりなく暮らしていた一般民衆、異邦人、取税人、遊女などの罪人と言われている人々でした。

 

バプテスマのヨハネは、当時のエッセネ派と言われるユダヤ教の宗派に属していたといわれます。その暮らしは簡素、質素でシンプルな生活でした。人々が豊かさを求めて追い求める生活と逆の生き方をしていました。
そして、エルサレムに暮らす宗教家たちのように、外面的にだけ宗教儀式を守ればよいというのではなく、心の内側から律法に従うことを追及していました。
ヨハネは義に生きることを人々に説いていましたが、ヨハネ自身がなによりも義に生きることを追い求めて生きていた人物でありました。

ヨハネのこの生き方には、私たちが律法の行いから福音を信じる生き方へと方向転換するための大切な要素を含んでいます。

義を追い求めない人には、罪は分かりません。

本当に義を追求していくとき、義を行うことのできない、不義、つまり罪深さが心の内側に存在することに気がつくのです。
義の行いについては律法に記されていますが、律法に従って生きようとすればするほど、罪がますます心の中に明らかになり、ついには自分自身の罪深さに絶望するのです。

そして、パウロが言い表したように、

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。ローマ7章24節

という告白に至ります。


バプテスマのヨハネは自身に 神の義を満たすことのできない罪を深く自覚し、罪を取り除く神の子羊の出現を心から待ち望んでいたことでしょう。
だからこそ、人々にも神の義を目の前に置き、神の義を実行する力がこの私にはあるのかと自問自答することを促し、もしできないものであると己の罪を認めるならば、その罪を悔い改めるようにと強く促し、神の子羊を待ち望むようにと罪の悔い改めを宣べ伝えたことでしょう。

②荒野において、主の道をまっすぐにせよという意味について

a 荒野とはどこにあるのでしょうか。
ヨハネが共同生活をしていた死海のそばの荒野は草木が何一つ生えることのない岩山でできた大地が広がっています。映像で見たことがありますが、ここに生き物が生息できるのだろうかと思えるところです。

人生の荒野という言い方を聞いたことがあると思います。
荒野は生きるための最低限の肉の要求を満たすことのできないところです。

水、食物、住居、自然環境、どれも安心、安全を満たすことができません。

常に死と向かい合わせとなるところです。安心、安全を求めても得ることができないそのような環境が荒野です。
b なぜ、私たちにも人生の荒野があるのでしょうか。
 2あなたの神、【主】が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。申命記8章2,3節

申命記を見るとき、神が人生の荒野に導かれること、そこで人は苦しめられ、試みられ、心の内にあるものを知るためであると書かれています。

荒野は世に期待することを放棄させ、神と神の言葉にのみより頼むための信仰の訓練の場であります。
このような環境において唯一人ができることは神に求めることのみです。
c 主の通られる道をまっすぐにせよ。とは。
人が荒野を通らされる大切な意味の第一は、神にのみ神の言葉にのみ信頼する人へ造り変えられることでした。
わたしはここでもう一つ人が荒野を通らされる大切な意味を見出します。
それは、人が主の通られる道をまっすぐにする通り良き管(パイプ)になることです。
それは、人が神の霊を受け入れる器となり、神の霊を豊かに注ぎだす器となるためであることです。

『大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。
すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。それであなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。テモテⅡ2章20~23節


神様は私たち一人ひとりが神に用いられる清い器となることを願っています。

 

招き
今、神様はあなたをイエス様の下に招いておられます。
神様はあなたの罪を糾弾するために招いているのではありません。
神様はあなたの罪を赦し、いのちを与え、喜び御満たすために招いておられます。
ヨハネが指し示したナザレのイエス様は2000年も前に、あなたの罪を赦すためにあなたの罪の身代わりとして十字架につけられ神のさばきを引き受けて下さいました。
あなたの罪は2000年も前にすでに赦されています。
今、素直に自分の罪を認め、罪の赦しをイエスキリストに求めるならば、イエスキリストは無条件であなたに罪の赦しを与えて下さいます。
子よ、あなたの罪は赦された。イエス様はあなたの罪を赦す赦し主、救い主です。
今、イエス様の元に行きましょう。そして直に心を開き、イエス様を自分の罪の赦し主として心の中に迎えましょう。

 

2023.10.8 湘南コミュニティチャ-チ

子よ、あなたの罪は赦されました。マルコ2章5節

子よ、あなたの罪は赦されました。マルコ2章5節(新改訳)


1.この御言葉はキリスト教の本質を言い表すとても重要な言葉です。

天地が造られる前にすでに神は居て、神は愛という本質をお持ちであるがゆえに愛する対象として人を創造されました。

人は、やがて神に背き、罪を負うことになりますが、神が人を創造した目的は変わりません。神の本質は愛であるがゆえに、人に罪があってもなお神は人を愛し続けています。

人は罪ゆえに、神に愛されていることを忘れて生きていましたが、福音を聞き信じることにより、神に愛されていることに気が付き、愛されている喜びゆえに、人も神を愛し、さらに互いに愛し合うために再び生きるようになります。

2,子よ、あなたの罪は赦されましたとは、人が犯した何かの過ちを赦しますということよりも広く深く、常に過ちを犯してしまう人の在り方そのものをすでに赦していますという神様からの一方的な宣言です。

中風の人はある日突然、病に襲われ、将来の不安と共に、こんな私は生きている価値があるのだろうか、どうやって生きていけばいいのだろうかと自身の存在価値が危ぶまれるそんな危機の中にこの人は置かれていたのです。

エス様がこの人を見て、子よ、あなたの罪は赦されましたと言われた時『あなたは生きていてもいいのだ。あなたには生きる価値が今も以前と同じようにあるのだ。なぜなら私はあなたを愛するために造ったのだから。』と語って下さったのです。

罪が赦されているとは何かその人が条件をクリアしたから与えられる褒美ではなく、何もできていなくても保証されているその人の存在そのものを指しているのです。

今日もまた主の赦しの中に憩いながら歩みだしてゆきましょう。

子よ、あなたの罪は赦されました。マルコ2章5節

人は神に愛されるために生まれた。

人は神に愛されるという神様の目的(本質)があって、神に創造された(人の形という実存が創造された)本質→実存。

 

サルトルの言う実存主義(実存は本質に先立つ)とは真逆になります。

引用しますが、

人間の本質?
ではここで、我々人間の本質について考えてみましょう。人間の本質とは何でしょうか。何のために我々は存在し、生きているのでしょうか。

この問題は古くは古代ギリシアから論じられています。ソクラテスはそれを「善き生」に求め、プラトンは「イデア」、アリストテレスは「最高善」と言いました。古今東西、様々な人が人間の存在理由について考えましたが、未だ結論はついていないように思えます。

しかし、実存主義者は人間の本質を規定する哲学を否定します。実存主義者は人間に本質など初めから備わっていないのだと主張します。我々は何かのために生まれたのではないと言うのです。

ここに至ってサルトルは冒頭の台詞「実存は本質に先立つ」と述べるのです。すなわち、我々は生まれながらに本質(=生きる目的)を持っているのではない、本質(=生きる目的)がある前に実存(=存在)があるのだ(=実存が本質に先立つ)というのです。

先程のペーパーナイフの例では本質が先立っていました。本質が最初から備わっているか否か、これが人間とペーパーナイフの違いだとサルトルは言います。

実存とは何か
さて、前章で人間の本質は最初から備わっているわけではないと言いました。じゃあ結局、「人間の本質ってなんなのよ」と思った人もいるかと思います。実はその問いこそが「実存」という言葉の核心に迫るものです。

我々にはもともと本質があるわけではありません。それならば、我々は本質を自ら探し求めなければいけない。自分自身で本質(=生きる目的)を掴み取らなければならないとサルトルは言います。

本質(=生きる目的)がないということは、何をすればよいかわからない状態です。そのような状態で人間は不安、恐れ、いらだちを感じます。

この状態をサルトルは「自由の刑に処せられている」と表現しています。(いきなり面接とかで「自由に喋ってみて」と言われた場合を考えてみてください。何を喋ればいいか困ってしまいますよね。それより「好きな小説について話して」と言われたほうが楽ですよね。)

人間は生まれてから現在まで、自由の刑に処せられながら無限の選択肢の中を生きています。選び取らなかった選択や選らんだことを後悔した選択があったかもしれません。しかし、いずれにせよ私たちは何かを選び取らなければいけなりません。

自由という、もしかしたら失敗するかもしれない不安の中で、自らの生き方や役割(=本質)を選び取らなければならない。過去の選択の責任を引き受け、過去から現在という直線の先端に立ち、その恐れや不安のただ中で、未来という不確定な世界に自分自身を投げうっていく(=投企する)、そのような存在を実存(=現実存在)といいます。

サルトルの生涯のパートナー(今で言う事実婚)であり、哲学者でもあったシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、実存というあり方を端的に捉えた以下のような言葉を残しています。

人は女に生まれるのではない、女になるのだ

コメント:

>本質とは目的を言うのですか?

本質=目的ではありません。本質とはそれをそれたらしめているなにかということになります。
ただ、本文ではなぜ存在するのか(存在目的)として考えるとわかりやすいという点で目的と表現しています。
確かに正確ではないので、暇な時に修正しようと思います。ご指摘ありがとうござます。

ボーヴォワールの例えは間違いなのです。
正解は「人間は人間に生まれるのではない。人間になるのだ。」

引用先:

実存主義をわかりやすく解説|実存は本質に先立つとは - Think Wild (koto-yumin.com)

 

サルトルによれば、引用の赤字の部分ですが、我々にはもともと本質があるわけではありません。それならば、我々は本質を自ら探し求めなければいけない。自分自身で本質(=生きる目的)を掴み取らなければならないとサルトルは言います。

と言っているそうです。人には本来、生きる目的があって造られたのではないから、自分で生きる目的を探さなければならいということでしょうか。

もし人は生まれてきても本来生きる目的が備わっていないとしたら、じゃあ、自分はどうしたらいいんだろうと確かに皆迷ってしまいます。

 

前置きが長くなってしまいました。

子よ、あなたの罪は赦されました

とイエス様は、半身不随になり、自分では歩くことができず、4人の友人に担架で運ばれてきた病人に向かってこのように言われました。

このイエス様の言葉はキリスト教の本質でとても重要な言葉だと思います。

 

聖書は、天地が造られる前にすでに神は居て、神は愛という本質をお持ちのため、

愛する対象を求められた。それゆえ、神は愛するために人を創造された。

人は神に愛されるために生まれた。

神に愛された人は、やがて神に背き、罪を負うことになりますが、

神が人を創造した目的は変わりません。

愛されているがゆえに、罪があってもなお神は人を愛し続けている。

 

人は罪ゆえに、神に愛されていることを忘れて生きていましたが、福音を聞き、再び神に愛されていることを知るとき、神に愛されていることを喜び、

神に愛されている喜びゆえに、人も神を愛し、さらに互いに愛し合うために生きるようになります。

神様は人が互いに愛しあうために男と女に結婚を備え、さらに人に様々な個性と能力を備えて下さいました。

 

子よ、あなたの罪は赦されましたという言葉は、

人が犯した何かの過ちを赦しますということよりも広く、

何かの過ちを常に犯してしまう人の在り方そのものをすでに赦していますよという神様からの一方的な宣言です。

 

脳卒中という病気はある日突然に起こります。まだ働き盛りの50代、60代の男性(女性も)が町に買い物や食事に出かけている最中、朝起きてさあこれから仕事に行こうと着替えている時などあまりにも日常的な生活の最中に起こります。

突然、緊急入院となり、気が付いたときには手足が麻痺し、言葉が上手にしゃべれなくなり、入院前の生活とはまったく違う生活になってしまいます。幸い、軽症で済む方もいますが。

聖書にしるされた半身不随の人もある日から、歩けなくなり、仕事を奪われ、収入もなくなり、人の世話にならなくては生きていけなくなったのです。

これから先どうしようかという不安と共に、こんな私は生きている価値があるのだろうか、なんのために生きているのだろうか、どうやって生きていけばいいのだろうかと誰しも思うのではないでしょうか。

自身の存在価値が危ぶまれる、アイデンティティが失われてしまう、そんな危機の中にこの人は置かれていたのです。

エス様がこの人を見て、子よ、あなたの罪は赦されたと言われたこの言葉は、『あなたは生きていてもいいのだ。あなたには生きる価値が今も以前と同じようにあるのだ。なぜなら私はあなたを愛するために造ったのだから。』と語って下さったのです。

罪が赦されているとは何かその人が条件をクリアしたから与えられる褒美ではなく、

何もできていなくても保証されているその人の存在そのものを指しているのです。