主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

わたしについて来なさい。マルコ2章14節

『イエス様の愛(真)弟子になりなさい。』

1.私は高校の教員を辞め、流道を通して福音を伝えていこうと決め、聖神館流道の内弟子となり、道場に通いつめていました。

しかし、イエス様ご自身に出会い、イエス様を師として従っていくように導かれ、

流道の業によって福音を伝えるのではなく、直接、伝道を通して福音を伝えるように導かれるようになりました。

上に掲げた言葉は道場を離れる時に私の信仰の師である合気道の寺田気山先生からいただいた最後の言葉です。

私はまだその時、はっきりと道場から離れることは思っていませんでしたが、師匠はすでにそのことに気が付いていて、はなむけの言葉として、また、師匠の真の心として伝えてくれました。

数年後に師匠が60歳の若さで天に召されてしまい、師匠と直接会ったのはこの言葉をいただいた時が最後でした。

道の世界では同時に二人の師匠に仕えることは許されないことです。

他の師に教えを乞うならば、けじめをつけてお世話になった師匠からは離れなれければなりません。

エス様をわが師としイエス様についていくと決めたならば、他の人を師と仰ぐことはできなくなります。

生前より寺田先生はイエス様についていきなさい。私はただみんながイエス様についていけるようにお手伝いしているだけだからと言われていました。

ですから、私が道場を離れてイエス様に直についていく道を選んだことを喜んで下さっていたのだと思います。

そのころの私は未熟で師の心も分からず数々の無礼を働いたことを感謝とともに、ここにお詫びしたいと思います。

誰についていくのか?初心に帰り、この問いかけを忘れず、主ご自身についていくことをあらためて覚えさせていただいています。

2.罪意識に嘆くものを招くイエス

カペナウムの町には大勢の人がいました。イエス様は道を歩きながらいろいろな人々をご覧になったでしょう。

 しかし、どうしてアルパヨの子レビだけに目が留まり、彼を招いたのでしょうか。その理由は、次のみ言葉から察することができます。

『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』

                              マルコ2章17節

13節から17節までの物語の流れの全体を俯瞰すると、アルパヨの子レビはイエス様が招く罪人の代表人物として描かれていることを知ります。

エス様がレビを招いたのは、彼が罪人としての自覚があったからです。

 

アルパヨの子レビは、取税人という職業を持っていました。

彼は転職をしようとイエス様に従ったのではありません。

彼に職業はありましたが、未だ誰に仕えるかという主人をもっていませんでした。

彼は生計を立てるためには、人々に嫌われようと、ロマの手下と言われようとも仕事を続けなくてはなりませんでした。しかし、彼の心の内には、虚無感と疎外感が満ちていたことでしょう。

仕事の意味、生きがいを見出すことのできない疎外感、ロマの手下、罪人の仲間と後ろ指さされ、社会的な疎外感を味わうだけでなく、ユダヤ人にとって一番のあこがれである永遠のいのちを得ることができないという絶望感をもっていいたことでしょう。

彼の中に深い罪人意識があることを彼をご覧になり見抜いたからこそ、罪人を救うためにこられたイエス様は彼を呼んだのです。

 

医者を必要とするのは病人であるように、

まず自身が罪の病に罹っていることを知り、その罪の病を自身では治せないことを知り、

罪の病を癒す医師の助けが必要であることを認め、医師の下へ助けを求める必要があります。

 

医者と病人の関係を思うとき、レビが自身の罪という病にどう向かい合っていたのかを知ることができます。

 

3 誰に仕えるか。主人を持つという生き方。

エス様についていくとはイエス様ご自身を目的にするということです。

エス様の働きをするということではありません。

どんな働きをするかどうかはイエス様についていく中で導かれていくものです。

 

レビがなぜイエス様の呼びかけにすっと立ち上がってイエス様についていくことができたのか?

 

アルパヨの子レビは、取税人という職業を持っていました。

彼は転職をしようとイエス様に従ったのではありません。

彼に職業はありましたが、未だ誰に仕えるかという主人をもっていませんでした。

彼はイエスという方に自分の天職を見出したに違いありません。

 

若者はみなそうであるかも知れませんが、大学生の頃から職業選択についてはずいぶんと悩みを抱えていました。

自分にとって一番ふさわしい職業は何だろうかと訪ね求める中、内村鑑三の『天職と一生』という書物に出会い、職業を超えた自分にとっての天職は何かと日々探し求めるようになりました。

わたしが天職を捜し求め呻いている時、言い換えれば、自分の人生の目標を見出せず、

迷っていた時も、イエス様を信じていなかったわけではなかった。

すでに4年くらい前にイエス様が私の個人的な救い主であることを知り、公に洗礼を受けていた。

罪の縄目がひどく絡みついてはいたが、教会にも通い、聖書の言葉を喜んで聞いていた。

しかしなお、イエス様に私の天職を教えてほしいと祈り求めながら苦しんでいた。~そのころは私の一番ふさわしい職業のことを意味していたが~

 

エス様ご自身こそ我が嗣業、天職そのものであると教えられたのは、わたしが内弟子として生きるために、道場の近くに一人アパートを借りて住み、一人祈っているときであった。

エス様こそ私の嗣業そのものであり、イエス様ご自身ことわたしの生きる目的であることを啓示された。

その直前に私は自分の罪を教えられました。それは、神の御心を求めず、神に仕えることを目的としていない自分の心でした。

そのことを教えられる前は、私にとってのイエス様とは私の願いを実現するために助けてくれる方であって、未だ心の主人は自分であり、イエス様が主人ではありませんでした。

自分にとっての職業選択とは自分のしたいこと、自分を生かせること、自分の生きがい、などなど自分についての悩みであり、主ご自身を求めることとは程遠いことに気が付かされました。

 

アルパヨの子レビは、イエス様に呼びかけられた時、

エス様こそわが師、わが主、生涯を通して仕えるにふさわしい主人であることを瞬時に悟り、惚れ込み、喜んで立ち上がってイエス様に従ったのではないでしょうか。