主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

荒野で叫ぶ者の声がする。マルコによる福音書1章2節から8節

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。マタイ5章6節

 

バプテスマのヨハネの生き方


1.聖書におけるバプテスマのヨハネの役割

律法から福音への架け橋となった旧約聖書最後の預言者。人々がイエス様を救い主として受け入れるための土台を用意した預言者

預言者は誰でもそうであるが、神から離れて生きている神の民に罪の悔い改めを求めて神に立ち返ることを語り続けた。
マラキの時代以降、預言者は現れず、民衆は悔い改めを迫る神の預言者の声を聴くことなく、律法学者たちの律法の教えを守ること、サドカイ派の教えに従い、動物の犠牲を神殿に捧げることにより、外面的な行為によって神の義を得ようとしていた。
しかし、真の預言者は人々の心の中にある不義を指摘し、罪の糾弾し、罪を悔い改め、罪から離れることを民衆に語り続けた。

ヨハネの役割は罪の悔い改めを勧めるだけでなく、
律法に示される救い主の到来の預言が成就する時が来た、
エス様が世の罪を取り除く神の子羊である(救い主)ことを明確に人々に指し示した預言者
まさに救いが来たことを民衆に明らかにした最後の預言者です。

神学的には律法を行うことにより救われる(永遠のいのちを得る)のではなく、
福音(イエスキリスト)を信じることによって救われる(永遠のいのちを得る)という新しい契約の時代が到来したという時代の架け橋となった預言者である。

2.ヨハネの生き方

義に飢え乾く者は満ち足りる。

 

ヨハネは荒野で叫ぶ者の声として生きていました。

荒野こそヨハネの生き方をよく言い表す場所ではないかと思います。


当時のローマの支配下にあるユダヤでは、ユダヤ人たちは大きく4つの宗派に分かれていました。
1)サドカイ派のようにローマの支配と妥協しながら伝統的な神殿礼拝の形式を司り社会的な地位を確保した人々。
2)反対に、パリサイ派律法学者たちのように神の律法(口伝律法)を厳格に守ることによってローマとの間に隔ての壁を作りユダヤ人のアイデンティティを守ろうとした人々。
3)あるいはエッセネ派のように、異国の支配から逃れるようにして社会から逃避し、砂漠や洞窟の中に隠れて律法に忠実に生きることを求めて、
共同生活をすることで自分たちのアイデンティティを守ろうとした人々。
4)熱心党などはローマに対してあくまでも武力で対抗する在り方で自らのアイデンティティを示しました人々。
そしてどの宗派にもかかわりなく暮らしていた一般民衆、異邦人、取税人、遊女などの罪人と言われている人々でした。

 

バプテスマのヨハネは、当時のエッセネ派と言われるユダヤ教の宗派に属していたといわれます。その暮らしは簡素、質素でシンプルな生活でした。人々が豊かさを求めて追い求める生活と逆の生き方をしていました。
そして、エルサレムに暮らす宗教家たちのように、外面的にだけ宗教儀式を守ればよいというのではなく、心の内側から律法に従うことを追及していました。
ヨハネは義に生きることを人々に説いていましたが、ヨハネ自身がなによりも義に生きることを追い求めて生きていた人物でありました。

ヨハネのこの生き方には、私たちが律法の行いから福音を信じる生き方へと方向転換するための大切な要素を含んでいます。

義を追い求めない人には、罪は分かりません。

本当に義を追求していくとき、義を行うことのできない、不義、つまり罪深さが心の内側に存在することに気がつくのです。
義の行いについては律法に記されていますが、律法に従って生きようとすればするほど、罪がますます心の中に明らかになり、ついには自分自身の罪深さに絶望するのです。

そして、パウロが言い表したように、

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。ローマ7章24節

という告白に至ります。


バプテスマのヨハネは自身に 神の義を満たすことのできない罪を深く自覚し、罪を取り除く神の子羊の出現を心から待ち望んでいたことでしょう。
だからこそ、人々にも神の義を目の前に置き、神の義を実行する力がこの私にはあるのかと自問自答することを促し、もしできないものであると己の罪を認めるならば、その罪を悔い改めるようにと強く促し、神の子羊を待ち望むようにと罪の悔い改めを宣べ伝えたことでしょう。

②荒野において、主の道をまっすぐにせよという意味について

a 荒野とはどこにあるのでしょうか。
ヨハネが共同生活をしていた死海のそばの荒野は草木が何一つ生えることのない岩山でできた大地が広がっています。映像で見たことがありますが、ここに生き物が生息できるのだろうかと思えるところです。

人生の荒野という言い方を聞いたことがあると思います。
荒野は生きるための最低限の肉の要求を満たすことのできないところです。

水、食物、住居、自然環境、どれも安心、安全を満たすことができません。

常に死と向かい合わせとなるところです。安心、安全を求めても得ることができないそのような環境が荒野です。
b なぜ、私たちにも人生の荒野があるのでしょうか。
 2あなたの神、【主】が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。申命記8章2,3節

申命記を見るとき、神が人生の荒野に導かれること、そこで人は苦しめられ、試みられ、心の内にあるものを知るためであると書かれています。

荒野は世に期待することを放棄させ、神と神の言葉にのみより頼むための信仰の訓練の場であります。
このような環境において唯一人ができることは神に求めることのみです。
c 主の通られる道をまっすぐにせよ。とは。
人が荒野を通らされる大切な意味の第一は、神にのみ神の言葉にのみ信頼する人へ造り変えられることでした。
わたしはここでもう一つ人が荒野を通らされる大切な意味を見出します。
それは、人が主の通られる道をまっすぐにする通り良き管(パイプ)になることです。
それは、人が神の霊を受け入れる器となり、神の霊を豊かに注ぎだす器となるためであることです。

『大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。
すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。それであなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。テモテⅡ2章20~23節


神様は私たち一人ひとりが神に用いられる清い器となることを願っています。

 

招き
今、神様はあなたをイエス様の下に招いておられます。
神様はあなたの罪を糾弾するために招いているのではありません。
神様はあなたの罪を赦し、いのちを与え、喜び御満たすために招いておられます。
ヨハネが指し示したナザレのイエス様は2000年も前に、あなたの罪を赦すためにあなたの罪の身代わりとして十字架につけられ神のさばきを引き受けて下さいました。
あなたの罪は2000年も前にすでに赦されています。
今、素直に自分の罪を認め、罪の赦しをイエスキリストに求めるならば、イエスキリストは無条件であなたに罪の赦しを与えて下さいます。
子よ、あなたの罪は赦された。イエス様はあなたの罪を赦す赦し主、救い主です。
今、イエス様の元に行きましょう。そして直に心を開き、イエス様を自分の罪の赦し主として心の中に迎えましょう。

 

2023.10.8 湘南コミュニティチャ-チ