人の子は安息日にも主です。マルコ2章28節
イエス様は律法の終焉と神の国の完成である安息の到来について告げる。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。
黙示録21章3,4節
マルコによる福音書の大きなテーマは、『神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』であり、わたしについて来なさい。である。
神の国がイエス様の宣教とともに始まっていること、来たことを弟子たちの前に示されてきた。同時にそれは、福音書を読む教会にも示されている。
神の国が来たことを教えるために、
神の業として悪霊を追い出し、病人を癒し、汚れを清められた。
神の言葉には罪を赦す権威があることを示された。
また、神の国は憐みに満ちた神の御人格であることを示すために、イエス様は罪人の友となり、罪人を救うために来られたことを示された。
ここで、イエス様が来られたことの最終的な目的についてイエス様は示し始める。
最終的な目的とは神の安息である。
安息とはどんな状態なのか。
達成感は心地よいものである。
溜まっていたしなければならなかった仕事がすべて仕上がった時、私たちは安堵感と喜びを感じる。
散らかっていた部屋がすっきり片付いた時、なによりも気持ちがすっきりし、
おいしいお茶とケーキが食べたくなる。
流しに溜まっている食器が片付いた時、
またスポーツの世界で苦しい戦いの後、優勝した時の達成感、喜び、そして安堵感。
オーケストラが曲を完成し演奏し終えたとき。
畑の収穫がすべて終わった時、
どれもこれもしなければならなかったタスクがすべてなし終えたとき、そしてゴールに行きついた時、私たちは喜び、安堵、平安、満足を得る。
神の安息とは何でしょうか。
それは、神がすべての御業をなし終えた、神ご自身が満たされた時です。
神様はこの地に、神と人が共に住み、もはや涙も渇きもない、神の創造の時のような世界を再び創造するという神の目的が成し遂げられる時が神の安息です。
イエス様は、まさにこの安息を成し遂げるためにこの世の終わりに遣わされた救い主なのです。
イエス様が来られたことにより、安息がすでに始まったとも言えるのです。
弟子たちがイエス様と共に歩いている過ごしているという姿は神の国においてイエス様が神の民と共に住むことの予表なのである。
このことを知るとき、イエス様と律法学者たちとの問答を理解することができる。
イエス様がすでに共に歩まれているので、ーこの状態がまさに安息であるー、もう断食する時ではなく、喜び祝うときなのである。
イエス様がすでに共に歩まれているので、飢える必要はなく、今は飢えを満たすためにパンを食する時なのである。
新しい着物が用意されているので、古い着物は破棄される時なのである。
律法学者たちは今目の前に律法の完成者であり、安息日の主人である神の子、救い主がいることに気が付いてない。だからこそ、イエス様は彼らの思い違いを正すためにも、心を覚醒させるためにも、あえて大げさなふるまい(彼らがしてはいけないとしていた決まり事を破るという行為)をされた。
人の子は安息日にも主です。
イエス様は神の国が完成されたその世界において主人としておられる。
ゆえに、安息が訪れたその日、すなわち真の安息日において主人なのである。
私たちは今、神の国が来たとすでにイエス様と共に歩んでいることに安息を覚えると同時に、霊肉ともに安らぎを受ける御国の完成の時を望み仰いで歩んでいる最中である。
2022.11.19 茅ヶ崎