主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

子よ、あなたの罪は赦されました。マルコ2章5節

人は神に愛されるために生まれた。

人は神に愛されるという神様の目的(本質)があって、神に創造された(人の形という実存が創造された)本質→実存。

 

サルトルの言う実存主義(実存は本質に先立つ)とは真逆になります。

引用しますが、

人間の本質?
ではここで、我々人間の本質について考えてみましょう。人間の本質とは何でしょうか。何のために我々は存在し、生きているのでしょうか。

この問題は古くは古代ギリシアから論じられています。ソクラテスはそれを「善き生」に求め、プラトンは「イデア」、アリストテレスは「最高善」と言いました。古今東西、様々な人が人間の存在理由について考えましたが、未だ結論はついていないように思えます。

しかし、実存主義者は人間の本質を規定する哲学を否定します。実存主義者は人間に本質など初めから備わっていないのだと主張します。我々は何かのために生まれたのではないと言うのです。

ここに至ってサルトルは冒頭の台詞「実存は本質に先立つ」と述べるのです。すなわち、我々は生まれながらに本質(=生きる目的)を持っているのではない、本質(=生きる目的)がある前に実存(=存在)があるのだ(=実存が本質に先立つ)というのです。

先程のペーパーナイフの例では本質が先立っていました。本質が最初から備わっているか否か、これが人間とペーパーナイフの違いだとサルトルは言います。

実存とは何か
さて、前章で人間の本質は最初から備わっているわけではないと言いました。じゃあ結局、「人間の本質ってなんなのよ」と思った人もいるかと思います。実はその問いこそが「実存」という言葉の核心に迫るものです。

我々にはもともと本質があるわけではありません。それならば、我々は本質を自ら探し求めなければいけない。自分自身で本質(=生きる目的)を掴み取らなければならないとサルトルは言います。

本質(=生きる目的)がないということは、何をすればよいかわからない状態です。そのような状態で人間は不安、恐れ、いらだちを感じます。

この状態をサルトルは「自由の刑に処せられている」と表現しています。(いきなり面接とかで「自由に喋ってみて」と言われた場合を考えてみてください。何を喋ればいいか困ってしまいますよね。それより「好きな小説について話して」と言われたほうが楽ですよね。)

人間は生まれてから現在まで、自由の刑に処せられながら無限の選択肢の中を生きています。選び取らなかった選択や選らんだことを後悔した選択があったかもしれません。しかし、いずれにせよ私たちは何かを選び取らなければいけなりません。

自由という、もしかしたら失敗するかもしれない不安の中で、自らの生き方や役割(=本質)を選び取らなければならない。過去の選択の責任を引き受け、過去から現在という直線の先端に立ち、その恐れや不安のただ中で、未来という不確定な世界に自分自身を投げうっていく(=投企する)、そのような存在を実存(=現実存在)といいます。

サルトルの生涯のパートナー(今で言う事実婚)であり、哲学者でもあったシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、実存というあり方を端的に捉えた以下のような言葉を残しています。

人は女に生まれるのではない、女になるのだ

コメント:

>本質とは目的を言うのですか?

本質=目的ではありません。本質とはそれをそれたらしめているなにかということになります。
ただ、本文ではなぜ存在するのか(存在目的)として考えるとわかりやすいという点で目的と表現しています。
確かに正確ではないので、暇な時に修正しようと思います。ご指摘ありがとうござます。

ボーヴォワールの例えは間違いなのです。
正解は「人間は人間に生まれるのではない。人間になるのだ。」

引用先:

実存主義をわかりやすく解説|実存は本質に先立つとは - Think Wild (koto-yumin.com)

 

サルトルによれば、引用の赤字の部分ですが、我々にはもともと本質があるわけではありません。それならば、我々は本質を自ら探し求めなければいけない。自分自身で本質(=生きる目的)を掴み取らなければならないとサルトルは言います。

と言っているそうです。人には本来、生きる目的があって造られたのではないから、自分で生きる目的を探さなければならいということでしょうか。

もし人は生まれてきても本来生きる目的が備わっていないとしたら、じゃあ、自分はどうしたらいいんだろうと確かに皆迷ってしまいます。

 

前置きが長くなってしまいました。

子よ、あなたの罪は赦されました

とイエス様は、半身不随になり、自分では歩くことができず、4人の友人に担架で運ばれてきた病人に向かってこのように言われました。

このイエス様の言葉はキリスト教の本質でとても重要な言葉だと思います。

 

聖書は、天地が造られる前にすでに神は居て、神は愛という本質をお持ちのため、

愛する対象を求められた。それゆえ、神は愛するために人を創造された。

人は神に愛されるために生まれた。

神に愛された人は、やがて神に背き、罪を負うことになりますが、

神が人を創造した目的は変わりません。

愛されているがゆえに、罪があってもなお神は人を愛し続けている。

 

人は罪ゆえに、神に愛されていることを忘れて生きていましたが、福音を聞き、再び神に愛されていることを知るとき、神に愛されていることを喜び、

神に愛されている喜びゆえに、人も神を愛し、さらに互いに愛し合うために生きるようになります。

神様は人が互いに愛しあうために男と女に結婚を備え、さらに人に様々な個性と能力を備えて下さいました。

 

子よ、あなたの罪は赦されましたという言葉は、

人が犯した何かの過ちを赦しますということよりも広く、

何かの過ちを常に犯してしまう人の在り方そのものをすでに赦していますよという神様からの一方的な宣言です。

 

脳卒中という病気はある日突然に起こります。まだ働き盛りの50代、60代の男性(女性も)が町に買い物や食事に出かけている最中、朝起きてさあこれから仕事に行こうと着替えている時などあまりにも日常的な生活の最中に起こります。

突然、緊急入院となり、気が付いたときには手足が麻痺し、言葉が上手にしゃべれなくなり、入院前の生活とはまったく違う生活になってしまいます。幸い、軽症で済む方もいますが。

聖書にしるされた半身不随の人もある日から、歩けなくなり、仕事を奪われ、収入もなくなり、人の世話にならなくては生きていけなくなったのです。

これから先どうしようかという不安と共に、こんな私は生きている価値があるのだろうか、なんのために生きているのだろうか、どうやって生きていけばいいのだろうかと誰しも思うのではないでしょうか。

自身の存在価値が危ぶまれる、アイデンティティが失われてしまう、そんな危機の中にこの人は置かれていたのです。

エス様がこの人を見て、子よ、あなたの罪は赦されたと言われたこの言葉は、『あなたは生きていてもいいのだ。あなたには生きる価値が今も以前と同じようにあるのだ。なぜなら私はあなたを愛するために造ったのだから。』と語って下さったのです。

罪が赦されているとは何かその人が条件をクリアしたから与えられる褒美ではなく、

何もできていなくても保証されているその人の存在そのものを指しているのです。