主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

誰に仕えるか。主人を持つという生き方。マルコ2章14節


エス様についていくとはイエス様ご自身を目的にするということです。

エス様の働きをするということではありません。

どんな働きをするかどうかはイエス様についていく中で導かれていくものです。
 

エス様は道を歩いている中、大勢に人を見かけたはずですが、なぜレビだけに目を留め、従うように呼び掛けたのか。なぜレビはイエス様の呼びかけにすっと立ち上がってイエス様に従っていくことができたのでしょうか?

アルパヨの子レビは取税人という職業を持っていました。

職業はありましたが、未だ誰に仕えるかという主人を持っていませんでした。

彼は生計を立てるためには、人々に嫌われようとローマの手先と言われようとも仕事を続けなくてはなりません。

しかし、彼の心の内には仕事の意味、生きがいを見出すことのできない虚無感、ローマの手先、罪人の仲間と後ろ指さされる社会的な疎外感。さらにローマ皇帝に従わなくてはならないという民族的屈辱感。そしてユダヤ人にとって一番のあこがれである永遠のいのちを得ることができないという絶望感をもっていたことでしょう。

しかし同時に、彼は心の内に、真に従うにふさわしい主人となる偉大なる真の王なる方を強く求めていたのではないでしょうか。

エス様は道を歩いている中、彼の内に真の主を求めてやまない飢え渇く心をご覧になりました。

エス様に呼びかけられた時、彼はイエス様こそわが師、生涯を通して仕えるにふさわしい主人であることを瞬時に悟り、惚れ込み、喜んで立ち上がってイエス様に従ったのではないでしょうか。

彼はイエスという方に自身の天職を見出したに違いありません。