主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

これがあなたがたのためのしるしです。ルカ2章12節

先週お話をしましたイザヤ書42章1節にわたしのささえるわたしのしもべという御言葉が記されています。イエス様がどのような御方であるかを表現するにこのしもべという言葉はもっともふさわしいのではないでしょうか。

父なる神様が救い主である御子を『わたしのしもべ』と表現されました。

御子の誕生とは父なる神様を王様とすればいわば王子様がお生まれになったわけですから、しもべという立場、身分はあまりにも王子様にはふさわしくないのではないかと思います。しかし、イエス様は父なる神様に対して忠実なしもべとして、父なる神様を自身の主人として仕えられたという驚くべき生涯を送られました。

 

ルカによる福音書に戻りますが、

『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのしるしです。』2章11,12節

 

『これがあなたがたのためのしるしです』という御言葉に新しく教えられました。

今まで、私は、このしるしは、2000年前のイエス様の誕生当時の羊飼いに与えられたしるしであると読んでいました。

しかし、このしるしは今もイエス様のおられるところを私たちに教えてくれるしるしとして続いていることを教えられました。

私たちにとってどのようなしるしとなるのでしょうか。それは、まさに『しもべ』としてのしるしではないかと思います。

イザヤの預言の通りイエス様は『彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない』方。

エス様の誕生は実に静かに始まりました。ベツレヘムの夜に到着した身重の妊婦と若い夫の夫婦のことをだれも気が付かず、目を留めることもありませんでした。彼らは案内された家畜小屋に退き、マリヤはそこで月が満ちて出産しました。夫だけが見守る中の寂しい静かな誕生でした。全世界の王となる御方はだれにも気が付かれずに生まれたのです。そして、住民登録に値しない羊飼いたちの訪問を受けました。

エス様の誕生は、貧しさの中に始まりました。暖かさもなく、布一枚しかイエス様を覆うものはありませんでした。もっとも貧しくお生まれになりました。

エス様の誕生は、不衛生な汚れた中に始まりました。

神ご自身であるキリストが人の姿をとって、地上の一番低いところへ、低い姿でお生まれになったのです。

以前、フィリピンのミンダナオ島の近くにあるサマル島にある孤児院を尋ねたことがあります。この貧しい地域の中で香嶋愛さんというクリスチャン女性とその家族・スタッフが孤児のために奉仕をしています。近くのダバオ市では人々が捨てたゴミでできた大きな山で生活をしている貧しい人々がいます。世界中どこにでもある風景かもしれませんが、スラム街の中で今も貧しく、寒く、不衛生な中で幼子が生まれています。

日本においても、トイレの中で寂しく生まれる子供たちがいます。

 

エス様が神のしもべとして神に忠実に歩む生涯の姿を私たちは理解することができます。

さらに、イエス様は神のしもべであると共に罪人に仕えるしもべとして歩まれました。

ここに大きな驚きがあり、おおきなしるしがあります。

尊い主人である神に仕えるしもべであるならば、しもべも誇りをもって仕えることができるでしょう。しかし、イエス様は、罪人である私たちに仕えるために私たちよりも低く謙遜な心をもって私たちに仕えて下さるとは。

『ひとの子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くのひとのために、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです』マルコ10章45節。

ザアカイという一人の金持ちがいました。彼は不正な方法で得た財産はありましたが、孤独で人々からはさげすまれていました。しかし、彼の中にはプライドだけはありました。イエス様が彼の町を訪ねてきたとき、彼は木に登り、木の上からイエス様を見下ろしていました。イエス様は、彼の登っている木の下に来て、木の下からザアカイに呼びかけました。『ザアカイ、急いで降りてきなさい』。

私たちにはプライドがあります。頑なな高慢な固い自我です。他人の声に耳を傾けることもできず、神の声にも耳を傾けることが出来ない硬い石のような心があります。そのプライドのために、人々の中に降りてくることができなくなっています。

このような人のプライドよりももっと低いところにイエス様は降りて来てくださって、私たちの心に呼びかけて下さいます。それは、このような頑なな自我をもつ私たちをも愛し、滅びることを望まず、滅びから救い永遠の命を与えたいと願う神の情熱が救い主として降りてこられたイエス様の中に溢れているからです。

人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。ルカ19章10節
わたしは正しい人をを招くためではなく、罪人を招くために来たのです。マルコ2章17節

世の中は、目立つこと、羨ましがられること、多くの人に注目をあびること、豊かになることのために、動き回っています。今も昔も変わりません。権力者は権力と握るために、誇示するために。どんな人もそれぞれの欲望を満たすために生きています。

貧しい人々、虐げられている人々、孤独の中にいる人々、社会の流れから外れてしまった人々は隅に追いやられています。しかし、今も飼い葉おけの中でお生まれになったイエス様はしもべとなってこのような人々の友となるために生きて働いておられるのです。

 

もちろん、身分の差に関わらず、すべての人は罪人です。すべての人が神に言い逆らい自分の欲望を満たすために生きている自分の罪を言い表し、神の御前に悔い改めることが必要です。悔い改めで神に立ち返らなければ人は神のさばきを受け、滅びてしまうからです。

神の御前に罪を悔い、この地上に救い主として来られたイエスキリストに赦しを乞い願うならば、だれでもその罪は赦され、永遠の命が与えられ神の子どもとなる特権が与えられます。

 

救い主の御降誕を褒めたたえます。

 

2020.12,20 茅ヶ崎集会クリスマスメッセージ