主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。・野の獣とともにおられたが、マルコ1章12、13節

3 御霊によって荒野に追いやられる マルコ1章9節から13節

  • エス様の宣教の始まりを学ぶと共に私たちのクリスチャン生活の始まり、いわばイエス様の証人としての生活の始まりを重ねて学んでゆきたいと思います。
  • 待ちに待った救い主イエス様の宣教の始まりが書き記されています。どれだけ待ったのでしょうか。長く見れば、創世記の初めからおよそ6000年も前から待っていたとも言えます。ヨハネはこの方が現れることを自身の生きる目的として待ち続けていました。私たちの人生の目的はどこにあるでしょうか

9節

  • これから始まるイエス様の宣教の一生はどのようにはじめられたのでしょうか。イエス様の伝道活動の始まりは、洗礼を受けることから始まりました。イエス様は常に神と共に歩まれていますので、罪を悔い改める必要はありませんでしたが、へりくだり人の受けるべき模範となって洗礼を受けられました。

 

10節

  • 洗礼を受けることの目的は、聖霊を受けることにありました。イエス様が洗礼を受けられた後に聖霊を受けたことは私たちのクリスチャンとしての生涯の始まりの模範でもあります。洗礼は罪の悔い改めのしるしです。今まで、神を知らず、イエス様を知らず、この世の習わしに従って、世の楽しみや富や誉を人生の目標として生きていた人が、生きがいを見つけようにも見つけることのできなかった人々が、もしくは、何の楽しみもなくむなしく人生を送ってきた人達が、ある時から神を教えられ、神を中心に生きていくという新しい生き方、充実した人生、喜びに生きる人生があることを教えられ、私も今日から神を信じ、救い主を信じ、この方と共に、この方に従って生きていこうとするこれが罪の悔い改めであり、罪の悔い改めのしるしとして洗礼を受けます。
  • エス様に聖霊が降られた時からイエス様の公生涯が始まりました。公生涯とは公に人々の前で救い主としての活動を始めるということです。
  • ここで、私たちは聖霊を受けることの大切さを知ります。私たちが、公に主の復活の証人として生き始めることができるのは聖霊を受けることにあることを示しています。
  • 私たちは聖霊を受けていなければ何の証の力もありません。人々の目を気にし、恐れながら、隠れながら、世の人々に合わせながらクリスチャン生活を送るのみです。
  • エス様が受けられた聖霊は鳩のようでした。鳩は柔和と平和の象徴です。聖霊を受けた人には平和が宿ります。柔和さが宿ります。しかし、心の奥底には力があります。聖さがあります。周囲の人々と調和することができます。しかし、同時にこの世の汚れからは離れた聖さを宿しているのです。
  • 鳩のもう一つの象徴は伝令です。鳩は平和を告げ知らせる象徴です。聖霊を受ける時、私たちは良い訪れを伝える平和の使者となるのです。

 

11節

 

  • エス様が聖霊を受けると、イエス様は天からの声を受けました。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』という神からの承認の言葉でした。
  • エス様の生涯は、父なる神に愛される生涯、そしてその歩みは父なる神に喜ばれる生涯です。イエス様は十字架の死に至るまで父なる神様を愛し続けました。十字架の死に至るまで、父なる神様を信頼し続けました。

この十字架の死に至るまでの宣教の生涯を支え続けたイエス様のアイデンティティの土台はどこにあったのでしょうか。それが、この『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』という神様からの言葉、承認でした。

  • 私たちが聖霊を受ける時、私たちの霊に確信が与えられます。決して揺るぐことの無い土台が据えられます。聖霊を受ける前は、自分はイエス様を信じているつもりだが、なにか確信がない、自分でも信じているのかなにか確信がない、自信が持てないという時期を過ごすことはないでしょうか。
  • しかし、聖霊を受ける時、私たちの信仰生活は変わります。私は確かに愛されている。私は救われている。イエス様は私の神だ、イエス様は私の救い主だと今まであいまいであった信仰生活にたしかな揺るがないいかりが据えられることを感じ取ります。海にいかりを下ろします。いかりが海底に就くとそこにとどまります。海の上が大嵐で波が大きくゆれ船が揺り動かされていても、船は難破することはありません。それはいかりがしっかりと海底にとどまっているからです。同じように、私たちは世の波風に翻弄されます。世の人々の批判も受けます。しかし、私たちの心の中心には、『神に愛されている』といういかりがしっかりと据えられるのです。

12節

  • 御霊はイエスを荒野に追いやりました。しいて行かせたということです。荒野でサタンの誘惑を受けるためでした。しかし、これはイエス様を悩ませるためではなく、イエス様がサタンに打ち勝つために来られたことを明らかにするためでした。イエス様は神の言葉をもってすべてのサタンの誘惑を退けました。そして、サタンはイエス様を誘惑することはできないことを知ったのです。イエス様が荒野でサタンの誘惑に遭い、そして勝利されたことは、私たちに対する模範です。
  • 私たちも聖霊バプテスマを受けたのちに、天からの声を聞き、救いの喜びに満たされます。そしてまもなく、私たちは荒野に導かれたことに気が付くことでしょう。

13節

  • 40日間イエス様はサタンの誘惑を受けられました。
  • この40日という数字には象徴的な意味があります。
  • ノアの洪水は40日40夜続き、そして古き世界は滅び去り、新しい世界が始まりました。
  • イスラエルの民は400年間、エジプトで奴隷生活を送りましたが、その後紅海を渡り、奴隷生活から解放されました。
  • イスラエルの民は40年間荒野をさ迷いましたが、その後、約束の地カナンに入ることができました。
  • モーセは40日40夜シナイ山にとどまった後に律法を授けられました。
  • このように、40という数字は、神の国の新しいステージが開かれる前の備えの期間として用意されています。その中には試みや苦しみに耐えるということも含まれています。しかし、その先には神様の新しい計画が開かれるのです。
  • 40という数字は象徴です。ですから、備えの期間は数か月、数年に及ぶこともあるかもしれません。
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  • しかし、私たちが忘れてはならないのは、御霊が荒野に導かれたということ。私たちもすでに『愛されている』という神の承認を得ていることです。そして、イエス様は荒野でサタンの誘惑に勝利されたという歴史的事実です。
  • 私たちもサタンの誘惑にあってもイエス様に依り頼んでいるならば、イエス様が私たちに代わってサタンの誘惑に勝利して下さるためです。
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  • 『野の獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。』
  • ここでもう一つ覚えていたいことがあります。導かれた荒野は肉体的にも精神的にも辛いところであったでしょう。しかし、荒野の周囲を見渡せば、そこには、野の獣たちが平和に過ごしている姿がありました。まさにエデンの園の様子です。そして、み使いイエス様に仕えていました。み使いは、人を守るために神より遣わされる仕える霊的な存在です。
  • つまり、荒野のただなかでありますが、周囲の環境は神によって守られているということです。つまり、『あなたに害を加えるものは何一つない』ルカ10章19節ということです。

まとめ。

  • 救いの確信がまだない人は聖霊が与えられるように祈り求めて下さい。
  • 今、荒野のただなかにいたとしても、それは御霊が導かれていることを覚えて下さい。
  • サタンの誘惑に翻弄されている人がいたとしても、イエス様はすでにサタンに勝利されたことを覚えて下さい。そして、私に代わって、イエス様がサタンに勝利して下さいます。
  • たとえ今荒野の中にいるとしても、周囲は神の守りに満ちていることを信じて下さい。『あなたに害を加えるものは何一つない』ことを覚えていてください。

2023.3.26 茅ヶ崎礼拝