主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

見よ。わたしのささえるわたしのしもべ イザヤ書42章1節

イザヤ42章1節から13節

主を待ち望む者は新しく力を得る。

  • イザヤはアッシリアユダ王国に攻めてくる時代に生きた。かろうじてエルサレムの陥落は免れた。イザヤが死んだ後、バビロニアが起こり、ついにエルサレムは陥落し、ユダ王国は滅びた。エルサレムの住人達は徹底的に蹂躙され、生き残ったユダヤ人たちはバビロンに捕囚された。後にアケメネス朝ペルシヤが起こり、クロス王は、ユダヤ人たちのエルサレムへの帰還と神殿再建を許した。
  • イザヤは、荒廃の最中、まだ見ぬ先に救い主の預言を預かった。それは、イスラエルの民に希望を与える預言であった。
  • エレミヤの預言31章15節とマタイによる2章17節への引用にあるが、エルサレム陥落による破壊・略奪・虐殺は悲惨を極めたに違いない。また、イエス様が誕生したヘロデ王の時代には、ベツレヘム近辺の2歳以下の幼子が虐殺され、それは、エレミヤの預言と救い主の誕生と重なった。
  • イザヤは、慰めようもないイスラエルの現実の中で、希望と回復の預言を語った。まだ見ぬ先に、イスラエルの回復の預言、それが救い主によってもたらされることを預言した。
  • 主を待ち望むこと。これこそ、イザヤのメッセージである。どれだけ長い間、主を待ち望まなければならないのであろうか。アッシリアの時代、バビロンの時代、イエス様の時代、そして大患難を経て、イエス様が地上に再臨するまでの時代。どれだけ待ち続ければいいのだろうか。
  • しかし、幸いなことに、私たちも同じように主を待ち続けているのであるが、同時にこの待ち続けている主がすでに来られ、イエス様を救い主として信じる者には私たちの心にすでに待ち望んでいた主が住んでいて下さっているという驚きがある。はるか先の未来のことであると同時に、私たちは心の中で主ご自身を主の到来を味わうことが許されている。これは救い主であるイエス様がすでに来てくださった新約の恵みである。
  • 私たちは主を待ち望みつつ、主にすでに与っているのである。

 

1節

  • 救い主はどのような方なのか。父なる神はその方をしもべと呼んだ。

〈わたしのささえる〉しもべ

〈わたしの心の喜ぶ〉しもべ

〈わたしが選んだ〉しもべ

彼は、神の霊を受け、〈国々に広義をもたらす〉しもべ

  • 広義とは、神の統治概念を示す。イザヤ40章10節に、統べ治めるとある。広義をもたらすとは、神の律法にそった支配が為されていくことである。神の律法による政治は、まことに平和に満ちた世界となる。広義とは神の律法を正しく遂行することである。
  • エス様ご自身が律法に忠実であられたが、この方によって神の律法による、つまり神の愛による統治を実現するために、この方はしもべとなってきてくださったのである。

2節

しもべは、柔和で謙遜である。しもべは主人に忠実であり、主人に仕える者である。

3節

いたんだ葦をおらず、傷ついた燈心を消すこともない。

葦はギリシア語で〈カノーン〉。

パピルスという葦は全長が大人の背丈の3倍ほどあり、まっすぐにすーっと伸びている。日本でいうと、若竹のようである。つまり、葦のようにまっすぐ立つ、物差しになる尺度、法則、原理。それゆえ、聖書は〈カノン〉と言われる。

  • 私たちの信仰がくじけそうになる時も消えかかってしまうときもイエス様は、

私たちの信仰を守り続けて下さる。

エス様のやさしさ、思いやり、弱さへの配慮、温かく見守り支えて下さる愛。

  • 偶像礼拝に陥り、律法が痛み、律法の炎が消えかかろうとしていたときも、しもべはくじけず、衰えることなく、ついには地に広義を打ち立てる。この方は、広義をもたらすまでくじけることない。ご自身の熱心によって成し遂げられていく。

4節

  • 島々とは、異邦人の国々を示す。私たち日本人も異邦人である。しかし、救いの恵みは異邦人にも及び私たちもしもべの実現する広義の中に導き入れられる。私たちもイエス様の教えを待ち望み、喜ぶようになる。

 

主を待ち望むこと、救いの完成を待ち望んで私たちも生きていく。主を待ち望む者を主は必ず救われる。この恵みを信じて、明日に向かって生きていきたい。

 

2020.12.13 茅ヶ崎集会建徳要旨