主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

神の家族なのです。エペソ人への手紙2章19節

神の家族、敵意は十字架によって葬り去られました

1.教会は神の家族

教会はキリストの体ですと1章23節に記してありました。2章ではもっと親しみやすい言葉で教会とは何であるかを言い表しています。
それは、教会とは神の家族のことですよと。今は家族といっても様々な形や規模があります。
一人ひとりのイメージしている家族の形は違うかもしれません。
しかし、共通していることもあると思います。
家族がいるということは、家族の一員であるということは、
独りぼっちではないということではないでしょうか。家族がいるということは、帰るところがあるということではないでしょうか。
家族がいるということは話せる人がいるということではないでしょうか。
助け合うことのできる、支え合うことのできる頼ることができるからではないでしょうか。
そこには安心と安全があるのではないでしょうか。
神の家族の姿が使徒の働きの最初の方に記録されています。
『信者となった者たちはみないっしょにいて、
いっさいの物を共有していた。そして、資産や持ち物を打っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもて食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれていた。』使徒2:44~47

なぜ、安心と安全があるかというと家族の中心に愛と信頼があるからです。家族の土台が揺るがないからです。
教会が“神”の家族であるならば、神様の愛が中心にあります。信頼するに十分にたる神様がいます。イエス・キリストという揺るがない土台の上に建てられているのが神の家族です。
そして、神の家族には、離別すること失うことなどの悲しみはもうありません。再び独りぼっちになってしまうこともありません。
例)フィリピンのココナッツチルドレン、香嶋愛さん。エリザベツ。サンダーホーム
2.神の家族となるための原則
①    キリスト・イエスの中にある
パウロは異邦人とユダヤ人が神の家族となることの原則についてここでは述べていますが、これは異邦人どうしつまり、あらゆる民族の人々にも当てはまることです。ヨーロッパのクリスチャン、アフリカのクリスチャン、ウクライナもロシア人にも当てはまることです。神の家族となる条件は、キリスト・イエスの中にあるということ、イエス様の救いの中に入れられることです。
②    キリストが私たちの平和である
思想や信条や文化や習慣が異なる人々が一つの神の家族となるためには、
エス様に結びつく必要があります。
エス様抜きにして人は残念ながら平和になることはできません。
民族・人種の異なる私たちが神の家族となるためにイエス様がして下さったことは。
③ 十字架によって敵意を廃棄された

   イエス様は十字架に釘付けにされたとき、戒めの律法を廃棄して下さった。
戒めの律法とは人を裁く心です。お互いに裁き合っている時、赦すこころがありません。敵対心が沸き起こります。イエス様は、十字架によって私たちの敵対心、さばく肉の心を取り除いて下さったのです。
なにが私たちの平和を妨げているのでしょうか。相手を憎む心、さばく心、赦さない心、疑う心、苦々しい心が残っていると私たちは平和になることができません。

④ 隔ての壁を打ち壊して下さった。

お互いの心の中に敵意がある限り、人は一致することはできません。

しかし人は、人に対する敵意という肉の心を人は罪あるゆえに自ら取り除くこともできません。人と人を隔てる敵意の壁を取り除くことのできる方は十字架にかけられたイエス様の他にはいません。
⑤  人を神に結びつけて下さった

   イエス様はご自身の体をもって敵意を廃棄されたとともに、イエス様を通して人を神に結びつけて下さいました。『私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御 霊において、父のみもとに近づくことができるのです。』
⑥   神の家族の共通点は、

御霊。神の家族は御霊の一致に土台を置かないとかえって混乱する。ユダヤ人と異邦人はイエス様を救い主と信じ、御霊を頂いた所は一致しますが、依然と言葉も文化も習慣も価値観も違います。異邦人同士でも肌の色も言葉も違います。神の家族の特徴は多様性の中にありつつ共通の御霊によって一つとされているとことにあります。
この点をお互いに認識し、大切にしていかないとかえって神の家族なのになぜこんなにも違うのかと裁き合い、争いあうことにもなりかねません。

3.まとめ。
敵意は十字架によって葬り去られました。エペソ2:16節。

エルサレムの神殿には、異邦人とユダヤ人の庭の間には隔ての壁があり、『その壁を乗り越える異邦人は死刑に処せられる』という注意書きが掲げてあったそうです。

ユダヤ人が大切にしていた律法は人を裁くための手段となり、互いに敵意さえ産み出し人と人を分け隔てる壁となりました。

エス様が十字架につけられ手足に釘打たれ血を流されたのは、人の心の中にある敵意、憎悪をご自分の体に釘付けにしてしまうためでありました。

エス様が苦しみを受けながら私たちの敵意をその身に引き受けて下さったことにより敵意は廃棄されました。

私たちはイエス様の十字架を見上げる時、私たちの中にあった人を裁く心、憎む心は消え去り、いつのまにか心の中に平和が生まれます。それは、イエス様が敵意の代わりに私たちの心の中に平和を与えて下さるからです。

エス様こそ私たちの平和であり、人と人を結びつけることのできる御方です。

エス様は 人同士の敵意を取り除くだけでなく、神との間にあった敵意も取り除いて下さいました。イエス・キリストこそ私たち平和でありまた神との平和です。ここに神の家族が生まれます。

一致はキリストにあること、和解はキリストにあること、人と人の関係を妨げている隔ての壁は両者がイエス様に近づくことによって取り除かれることを覚えたいと思います。

2022.9.24.25 片瀬山、茅ヶ崎集会