主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだと分かった。ルカ24章30,31節

私たちの目が開かれる時。

今日もイエス様の御手よりパンと葡萄酒を頂きました。

パンを頂くとき、私たちの心の目が開かれイエス様が生きておられ、ともにおられることが分かるのです。イエス様は私たちに心の目を開くためにもパンを私たちに与えられるのです。

五つのパンで5000人の人々を養った時も、パンの奇跡を通して、私は生きている主である。あなたがたのメシアであることを教えようとされました。

 

16節:しかし、二人の目は遮られていて、

なぜかれらの目は遮られていたのでしょうか。

彼らはイエス様が隣に歩いているにも関わらず、イエス様だと悟ることはできませんでした。確かにイエス様は別の姿で彼らに近づいたとマルコ福音書には記されています。

見ず知らずの旅人が彼らといっしょに歩いていたと二人の弟子は思っていました。

恐らく昔は、見知らぬ人同士が同じ道中を一緒に歩きながら情報交換をするのは自然な姿であったことでしょう。

目がさえぎられていたとは、彼らが聖書に記されている預言と

三日前に起こったイエス様の処刑と、今朝、婦人たちが証言したイエス様の体が見つからず、イエスは生きておられるとみ使いが告げたという出来事が彼らの心の中で結びつかずにいたということです。

彼らは非常に動揺し混乱していました。

まず、イエス様が突然に処刑されたことの事実がまだ受け止めきれず、同時にイエス様がいなくなってしまった喪失も受け止められず動揺していました。

親しい人が突然いなくなったことを受け止めるだけでも、大変なことであるのに加えて、さらに、墓に葬ったはずの遺体が見当たらず、

さらに、イエス様は生きていると言われたみ使いのことばにどう反応していいのかわからず、心も頭も混乱していました。

喜んでいいのか、悲しんでいいのか、

何がほんとで何がうそなのか。自分たちの怒りと悲しみと喪失をどこに向ければいいのか。彼らはこの三日間に起こった出来事を繰り返し語りながらも受け止めることができずにいました。

横に一緒に歩いている人が誰であるかなどどうでもいいことでした。

20節;それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、

彼らにとって、ローマの圧制から救ってくれる救世主を待望していました。そして、祭司長や律法学者たちは、ユダヤ教の指導者としてユダヤ人の精神的な支えでもありました。

当然、行いにも言葉にも力のある預言者とみられていたナザレのイエスという青年預言者を後押しし、民衆と一緒になってローマに立ち向かってくれるのではないかと期待もしていたのかと思います。

ところが、よりによって、イエス様をサポートしてくれるはずの祭司長、律法学者たちがピラトと結託し、イエス様をローマに引き渡してしまった。

21節;私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。

27節;ご自分について書かれていることを説明された。

彼らがいくら自分たちの知性で理解しようとしても理解できなかったエルサレムでの出来事は、イエス様ご自身が解き明かされることにより、彼らの心は燃えました。

聖書に示されている神の御心は人の知性や理性で議論しても理解できず、

聖書はイエス様ご自身(聖霊)によってのみ悟ることのできる神の書物なのです。

聖書を通して神の御心を知るには常に聖霊の助けを必要とします。

エス様ご自身が彼らと共に歩きながら、

聖書に記されていることを彼らに解き明かして下さっっているこの場面は実に麗しい姿ではないでしょうか。

31節;彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。

聖書を読む目的はイエス様ご自身を知ること。

旅人からパンを受け取った時、姿が違うにも関わらず、隣を歩いていた旅人はイエス様だと分かったのです。不思議ではないでしょうか。違う姿なら、違う人物であると認識することのほうが自然です。

彼らはパンを頂いた時、イエス様の霊を受け取ったのです。

復活のイエス様を知る、イエス様は生きていると知るのは肉体の目ではなく、私たちの霊で見ること知ることです。

31節はさりげない短い節ですが、非常に大切な真理を含んでいると言えます。

ここには、二人の弟子はイエス様からの解き明かしを聞いて、聖書の預言が良く分かったとか聖書の意味が良く分かったと記しているのでありません。

彼らは『エスだと分かった』と書いてあるのです。

聖書の一つ一つの字義の意味が教えられるだけでも大きな喜びが私たちの心を満たしますが、聖書からイエス様ご自身の人格を教えられる時の喜びは字義を教えられた時の喜びをはるかに超える喜びです。

聖書を読む者にとって、イエス様ご自身を教えられることを願いつつ聖霊の御たすけを頂きたいと願います。

36節;あなたがたに平和があるように、

彼らが突然の喪失に混乱し、希望を失っている時もイエス様は隣を歩いていました。

彼らが聖書の意味も見失っている時に、イエス様は聖書を通して語り続けて下さいました。

エス様はパンを通して、私を覚えなさいと声をかけ、彼らの心の目を開いて下さいました。

エス様はご自身が生きておられること、死に勝利されたことを身も持って彼らに示されました。

エス様は彼らを失望に終わらせることをなさいませんでした。

エス様は彼らに未来を与え、希望を与えられました。

 

私たちは今目の前に起きている人生の嵐と聖書の物語が私の人生にどう関係しているのか分からずに右往左往している迷える子羊です。

しかし、イエス様は人生の嵐の中にいる私たちに寄り添って歩んで下さり、

聖書を通して語りかけて下さっている神様です。私たちの心は少しづつ少しづつ開かれて行き、いつのまにか聖書のことばを慕わしく思い始め、

エス様の存在を愛おしく慕い求めるように導かれます。

エス様は私たちの人生の物語の中を今も共に歩んで下さり、

救いの神として将来への希望をつないでいて下さる御方なのです。

 

2022.10.22,23 片瀬山・茅ヶ崎集会