イエスだとわかった。ルカ24章31節
1.31節はさりげない一節ですが、非常に大切な真理を含んでいると言えます。
ここには、二人の弟子はイエス様からの解き明かしを聞いて、聖書の預言が良く分かったとか聖書の意味が良く分かったと記しているのでありません。彼らは『イエスだと分かった』と書いてあるのです。
聖書の一つ一つの字義の意味が教えられるだけでも大きな喜びが私たちの心を満たしますが、聖書からイエス様ご自身を教えられる時の喜びは字義を教えられた時の喜びをはるかに優る喜びです。
聖書を読んでいると、突然、イエス様が心全体を満して下さる時があります。
イエス様は「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」ヨハネ5:39と言われています。
聖書を通してイエス様ご自身にお会いできた人は幸いです。
それゆえ、聖書を読む者は、イエス様ご自身を教えられることを願いつつ聖霊の御たすけを頂きたくことが聖書を読む際の幸いな心の姿勢かと思わされます。
2.私たちはこの二人の弟子のように今、目の前に起きている人生の嵐と聖書の物語が私の人生にどう関係しているのか分からずに右往左往している迷える子羊です。
しかし、イエス様は人生の嵐の中にいる私たちに寄り添って歩んで下さり、聖書を通して語りかけて下さっている神様です。
私たちの心は少しずつ開かれて行き、いつのまにか聖書のことばを慕わしく思い始め、イエス様の存在を愛おしく慕い求めるように導かれます。
彼らはイエス様ご自身に出会ったことにより、平安な心を頂いて他の弟子たちの下に帰っていくことができました。
人生の海の嵐がまだ続くとも、聖書を通してイエス様に出会う時、私たちは平安な心を頂ける。ということをこの物語は教えて下さるのではないでしょうか。