エルサレム中の人々もユダヤ人の王として、ローマの圧制から救うことのできる救い主を求め、期待し待ち望んでいる中、
父なる神様は憐み深く、誰よりも先に、ヨセフとマリアにはイエス様の誕生の意味をはっきりと伝えてくれました。
それは、イエス様はご自分の民をその罪を救うために生まれてくるということでした。
マリアもヨセフも驚いたことでしょう。
政治の王は、外面的な救いです。たとえ政治がユダヤ人の手に戻ったとしても、
人の心の中の汚れは変わりなく続いています。
イスラエル周囲にも様々な王国が起こり、王は変わりました。エジプト、バビロニア、アッシリア、・・しかし、王が変わっても争いはなくなりませんでした。
人間同士の争いは
ずっと続いてきました。
21世紀に入ってさえ、この世の君は力ずくで領土を奪い取ろうと、人の血を流し、命の価値を尊びません。
人の世に苦しみがあり、争いが続くのは、人の中に罪があるからです。
人に罪があるがゆえに、神様の愛と平和の世界から切り離され、自分の欲得、自己中心に他者を退け、肉の力で生きようとする激しい競争社会を生み出しているのです。
人の内に罪がある限り、外面をいくら変えても、本当の平和は訪れません。
生活が良くなったとしても、心の中にある暗闇を消すことはできません。
しかし、聖書から言えることは、たとえ生活は変わらなくても、
心の中にある罪から救われれば、人の心の中に光が灯るということです。
では、人は自分の罪を取り除くことが出来るでしょうか。
どのようにして、目にも見えない人の罪を見つけ出すことができるでしょうか。
厳しい修行の先に、罪からの解脱があるのでしょうか。
あるとしても、いったいどれだけの人がそのような厳しい修行の世界に取り組むことができるのでしょうか。日々の生活を支えるだけでも精一杯だといいうのに。
人の罪などという宗教的な話は私には関係ないと思う人も大勢いることでしょう。
やはり、人の罪は人の力では取り除く方法がないというのが結論です。
神様は、ヨセフとマリヤに告げました。
マリアのお腹の中に宿る子は確かに救い主だ。その救いとは人々が願っているような
政治的な王としての救いではない、人の根本の過ちを正すための
人の罪を取り除くための救いだ。
そのために、神様が直接介入して、聖霊の御力によって奇跡的に罪のない子を宿すのだ。
この方が、2000年前にユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。
私たちをその罪から救うためです。
神様はこの救い主イエスキリストを信じるすべての人をその罪から救われます。
そして、罪から救われた人々とともに罪のない平和な世界を造ることを計画されています。
私たちも、今日という日にこの救いの恵みを受け取ろうではありませんか。
だれでも、自分の心の中に罪があることを認め、
イエス様が罪からの救い主であることを信じ、
『わたしの罪を許して下さい』とイエス様に求める者は、みな、罪から救われます。