主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。イザヤ書59章1節

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。

あなたがたの咎が、

あなたがたと、

あなたがたの神との仕切りとなり、

あなたがたの罪が御顔を隠させ、

聴いてくださらないようにしたのだ。イザヤ59章2節

 

わたしはこのイザヤ書の御言葉を逆境の時には特に、自分自身に適用しながら、

神様のせいにしないように心がけるようにしています。

 

決して、主の御手は短くはないのです。ですから、

自分がどんなにみじめであっても、

私を罪から贖って下さったイエス様を貶めるような言葉は口にしません。

いかなる恥も私自身にあり、いかなる場合においても誉は神にあります。

いかなる汚れであってもいかなる汚れた行いであっても

エス様の十字架の血によって贖われていない罪過はないと

ここに宣言します。

 

暗闇の力に圧倒され、地にひれ伏すような時があっても、

神は聖霊を送り、時にみ使いを送り、

十字架の上のイエス様を見上げる信仰を与えて下さるとき、

十字架の上で流されたイエス様の血潮により、

私は罪の縄目から解放されます。

十字架の上のイエス様と共に私の古き肉が十字架に釘付けにされていることを宣言するときに、

私を縛り付けていたサタンの縄目は解かれ、

私は再び新しい復活の命が私を満たして下さり、主御自身が勝利されたことを復活の主と共に味わうことができます。

 

ただ、私は神の恵みに甘んじるだけでなく、

罪過に陥らないように自分自身で自分の心を守らなくてはなりません。

神様が求めているのは清い器、

悔い砕かれたたましい、

明け渡した心です。

 

私の望みは、主の宮に住み、主の御そばにはべり、いつも主の御顔を仰ぎ見てることです。

それゆえ、願わくば、日々、主の十字架を仰ぐことによって、

主の新しい血を受け、神の義を受け、

神の御顔を仰ぎみることを赦していただけますようお祈りいたします。アーメン