マルコ15章16節から41節
イエス様を自分の王とすることを頑なに拒み抹殺しようとする人の罪。
10節
「ピラトは祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことに、気がついていたからである。」
祭司長たちのねたみとは何か。ゆだや人の真の王が来るならば、ユダヤをローマの圧政から解放してくれるかもしれない。なぜ、イエス様を頑なに拒んだのか。彼らの妬みとは、自分の主権が侵されるからではないか。ローマ皇帝を王としていたほうが、彼らの利権が実は守られる。宗教指導者として自分勝手な振る舞いが、世の力をほしいままにできた。まことの王が来たならば、彼らの不正が暴かれ、正しいさばきが己の身に及ぶことも承知していたに違いない。
祭司長たちの妬みとは、私たちにとって、自分が王として君臨していたい。その方が、自分の好き勝手な振る舞いのままでいられる。自分を主としていたいために、まことの主であるキリストを心の中に迎え入れようとしない。かえって追い出し、抹殺しようとする人の利己的な罪のことではないか。
16節から20節
21節
突然に負わされた十字架の重荷、人が人生の途中に背負わされる突然の重荷はイエス様に出会う始まりかもしれない。
サタンの最後の誘惑といってもいい。十字架から降りてしまえば、十字架の死にまで従い、完全なる従順のゆえに与えられる神の義が成立しなくなる。
神自らが自分を救えないのか。神は全能ではないのか。
神は、サタンが仕掛けた妬みによる十字架の死に負けるのか。表現はきついが、このようなことをサタンはイエス様にたいして誘惑してきた。神がなぜ愛する神の子を見捨てるのか。
あなたは「ほんとうは神の子ではないのではないか。」サタンは、イエス様の自尊心を最後に誘惑してきた。しかし、イエス様には全く利己心はなかった。全く神に信頼しきっていた。それゆえ、罪人と同じように、利己心に働きかけて誘惑することは不可能であった。
私は、妻になにか間違いや不備を指摘されると、黙ってはいられない、自分の正しさを主張し、自分の自尊心を守ろうとする。私たちの夫婦の中を裂くためにサタンは自尊心をくすぐる、私は、妻に言われ続けることに堪えられない。自分の正しさ、これは、無理矢理というわけではなく、本当に自分の理由や立場などを伝えるに過ぎない。しかし、それがけんかの火だねとなり、火は大きくなる。サタンの「自分を救え」という言葉があれば、夫婦に不和をもたらすのはたやすいことである。
しかし、イエス様は、兵士たちの暴力にも無抵抗、無言であったと同様に、サタンの誘惑に対しても、無言を貫いた。イエス様には、十字架に着くことは父なる神の御心であり、イエス様にとっては、御心に従うことこそ、イエス様の喜びであった。
34節
そのイエス様が、十字架の上で「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と父なる神に叫んだ。これは、詩篇22編の冒頭である、ダビデは、最初このように叫んだが、やがて「彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした」と讃美に変わる。
この言葉は、父なる神への恨み節ではない。十字架の死を越えて与えられる復活の命への信頼である。
同時に、この叫びによって、イエス様の十字架の苦しみが何であるかを私たちに教えて下さる。イエス様の苦しみは父なる神様との交わりから切り離されることであり、父と私は一つであると言われた主ご自身が、神から永遠に引き離されるという罪人が受けるべき、神の刑罰を受けられたのである。イエス様が、神のさばきを罪人の身代わりに受けて下さらなかったら、どのようにして、罪人である私たちが神のさばきを受けずに救われようか。
主はまさにこの刑罰を受けるために、受けることを承知で十字架につけられたのである。
16章には、イエス様の復活がある。もし、神の子、救い主がほんとうに十字架の死で終わってしまったのなら、救いようのない物語であった。しかし、十字架は、神のさばきの執行であり。復活は神の赦しの保障である。弟子たちは、福音書にイエス様の十字架の死を書き残したが、それは、罪人を救うために人の姿をとった救い主の救いの道をしっかりと伝えて行くためであったと思われる。
2019,3,2 片瀬山集会 メッセージ要旨