聖餐の祝福③ 過ぎ越しのいけにえ 滅びの災いからの救い。
あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためのしるしとなる。
わたしはその血を見て、あなたがたのところを通り越そう。
わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
出エジプト記12章13節
そもそも、なぜイエス様は弟子たちと過ぎ越しの食事をされたのか。
それは、出エジプト記に記されているように、主が、エジプトに対する最後のわざわいとして、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打つことを宣言されました。その時、傷のない一歳の雄の羊をほふり、その血をとって、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに塗り付けた家々に対しては、主はその血を見てあなたがたの所を通り越そう、主がエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらないと約束されました。
主の約束通り、イスラエルの人々の初子は誰一人滅ぼされることはありませんでした。
イスラエルの人々は、主の憐み深さと主のさばきの峻厳さを目の当たりにし、畏れの心をもって、ひざまずいて主を礼拝したのです。
この過ぎ越しを忘れないために、永遠のおきてとして、過ぎ越しの儀式を守るように命令されました。
イエス様たちも永遠のおきてとしてこの過ぎ越しの食事を用意されました。
私たち、クリスチャンが聖餐を頂くのも、神の小羊であるイエス様が罪のない血を十字架で流されたことにより、父なる神様はその血を見て、その血の中にいる者たちを
一人も滅ぼすことがないという神の約束を思い起こすためにあります。
大切なことは、イスラエルの民は最初の過ぎ越しを体験した後、
ひざまずいて主を礼拝したことにあります。
神のさばきは恐ろしいものです。神様は私たちの行いと心の思いのすべてを克明に記録されています。
私たちは神の御前で何一つ弁解する余地はありません。心の中に秘められていたすべての暗闇も神の光に照らされて露にされる時が来るのです。
にも拘わらず、生きている時、イエス様を私個人の救い主として信じるならば、
イエス様の流された血の価値によって、
私たちは罪を犯したことの無い者とみなされて、すべての罪の行いは帳消しにされて、
神のさばきに遭うことなく、永遠の命を頂くことができるのです。
神のさばきを免れた喜びはいかに大きいものでしょうか。
私たちも聖餐(パンと葡萄酒)を頂くとき、主イエス様によって成し遂げられた救いの御業、滅びからの救いにあずからせていただいたことを覚えて、心から主を礼拝するひと時となるということです。
聖餐は礼拝と深く結びついています。