主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。Ⅰコリント11章25節

Ⅰコリント11章25節

主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

 
題 パン裂きにおいて「主が来られるときまで」を覚えるように勧められた主の御心
教会の中心は主の十字架です。主の十字架の死と復活が中心です。そして、礼拝の中心も主の十字架と復活です。どのような教会においても、主の十字架が語られ、啓示されてこそ、
私たちの心は、主の御前に整えられ、霊と真によって礼拝を捧げる礼拝者となることができます。十字架は私たちの避けどころでもあります。世の激しい試練にさらされている時、
私たちの逃げ込むべきところは、主の十字架です。主の十字架を見上げるとき、私たちの古き人が主と共に死んだことを覚え、もやは罪の奴隷ではなく、義の奴隷となったことを再確認することができます。私たちは、十字架の血によって、肉と心の汚れが清められてこそ、
私たちの魂は主を喜ぶ心に満たされます。
このように、主の十字架が礼拝の中で啓示されることは、信仰生活の力であり、クリスチャンの生きる根源です。
この十字架を覚えるために、主ご自身が、主の食卓を備えらたことは、大変深い主ご自身の愛の現れであります。御言葉と共に、目に見える形で主の十字架を覚えることができるパンと杯は、主の十字架の中心性をまさに表わすものです。
本論
このパン裂きの際に朗読されるⅠコリント1125節に、「主が来られるときまで」という聖句が記されていることはどのような主の御心でしょうか。
1主の再臨そのものを待ち望む。
    信徒にとっては、・空中での主との再会 先に信じて眠りについた人々との再会
そして、いつまでも主と共にいることの約束を待ち望むということです。
・テサロニケ413章から17
    その後、地上再臨において、神を認めない者、主イエスに聞き従わない者に罰を与えられる。
・Ⅱテサロニケ189
私たちが待ち望んでいるのは、主が空中に来られる時です。
ヨハネ528節、29節 「このことは驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善を行った人々は、生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出て来る時が来るであろう。」口語訳
・正しい者も正しくない者も復活するが、これは全く別のことであって、しかも、この間には神の目に千年という期間がある。黙示録20456
正しくない者に対するさばきはさばき主として来られるイエス様に任せて、私たちは主の再臨を待ち望むように召されています。
2 主が来られる時までとは、どのような態度で待ち望めばよいかを覚える。
この2番目の意味がこの聖句には、含まれているのではないかと教えられ、あらためて、この聖句を見つめ直しました。
ルカ1241節から48節。ここに忠実で賢い管理人としてわきまえていることがイエス様より教えられています。パンと杯をいただくときに、主の来られるときを覚えるということは、自分自身の信仰の態度をそのたびごとに吟味する時でもあるのではないでしょうか。
パンと杯は、伝統的に信仰告白をし、洗礼の住んだ信仰者に対して分け与えられるものです。
この意味は、信仰者に覚悟を問うているともいってよい。パンと杯をいただくということは、一人一人がキリストに従う決心を表わす時でありました。古代教会で明日の命も分からないクリスチャンたちが、家の中で共にパンを裂いて分かち合った時、そこには、キリストとの一致の喜び、キリストの体との一致の喜びと共に、世の戦いの激しさの中にあって今日もまたキリスト者として生きていこうという決心があったと思います。
結論
パンと杯をいただくということは、イエス様が十字架の上でご自分の命を捨てるほどにこの私を愛して下さっていることを覚えるとともに、その愛に応えていく私たちの信仰の姿勢をパンと杯をいただくという行為をもって表わしていく時でもある、それを主が再び来られる時までと言い表しているのではないかと思わされました。
2019.2.24 茅ヶ崎集会メッセージ要旨