主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。へブル10章22節

聖餐の祝福① 真の礼拝者となるために。

 

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。へブル10章22節

 

 

聖餐式は、イエス様の十字架を覚えるためにあります。

聖餐式がイエス様の十字架を覚えるためであるなら、

エス様が十字架の上で私たちのために成し遂げられたことの全てがそこに含まれているということになります。

それゆえ、聖餐式にて主御自身の御手からパンと杯をいただく時に、

私たちはイエス様の全てを見ることができます。

 

エス様はサマリアの女との対話の中で、父なる神様は霊とまことをもって礼拝する人々を求めておられると語られました。

サマリアイスラエルという場所ではなく、その人の心の神殿においてその人の新しくされた霊とその人の真の信仰告白による礼拝を求めておられるのです。

 

罪人が神に受け入れられる真の礼拝者となるために必要な条件は、

神様に受け入れられる完全な贖いが捧げられることです。

エルサレムの神殿で捧げられていた動物の血は、型であって、神様に受け入れられる贖いとはなりえませんでした。

神様に受け入れられる完全な贖いは。御子イエス様ご自身が十字架の上で流された血でした。

エス様の血によって私たちの邪悪な良心はきよめられたために、良心のとがめは消え去りました。つまり、神に裁かれるのではないかという恐れ、神から遠ざけられるのではないかという不安、罪を犯してきた自分自身へのうしろめたさなどが一切消え去ってしまいました。

それゆえ、私たちは正々堂々と神の民として神の御そばに近づき、つまり、大胆にまことの聖所にはいることができ、

神の御前で神を賛美し、神にひれ伏すことができる者となりました。

このように、イエス様の十字架の贖いにより、真の礼拝者となれた喜びを携えながら、神を礼拝する者とされています。

 

礼拝式において、聖餐に与ることは、私たちが真の礼拝者としての資格を得たことを意味しています。

聖餐に与り、真の礼拝者としての資格を得て、神の民と共に神を礼拝します。

聖餐に与るときに真の礼拝者の資格を得るということではなく、

すでにイエス様の血に与り、真の礼拝者とされている者が、

聖餐を通してイエス様が十字架の上で成し遂げられた恵みの御業を思い起こすのです。