聖餐の祝福② 十字架は霊とまことの礼拝に至る道 ~至聖所への道~
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けて下さったのです。へブル書10章20節
教会によっては礼拝式の中で、始まりに賛美の時間が延々と続き、初めは心地よく賛美を捧げていたはずが、途中で賛美の情熱がとき切れてしまい、何か無理やり賛美させられているような感触をもった経験はないでしょうか。
賛美リーダーが肉の力で引っ張ろうとしていることを感じてしまうとき、
いわゆる興ざめしてしまうのです。
私たちは賛美の中に住まわれる主に出会うことを期待しながら賛美を捧げています。
そして賛美の中に臨在される主よりの啓示のクライマックスは、十字架にかけられたイエスキリストが啓示される時ではないでしょうか。
十字架が啓示され、そして私たちの心が十字架に集中する時に、
至聖所への扉が開かれ、私たちは至聖所におられる(神の御座におられる)父なる神様と神の右に座しておられる主イエス様を礼拝することができます。
この真理を知らされず、聖所にも至聖所にも入らず、外庭で礼拝を捧げて満足して家路につく人々もいます。
礼拝式の中で主の十字架を見出した者は霊とまことの礼拝を捧げることができますが、
礼拝式の中で主の十字架を見出すことのできなかった者は、なにか不消化な状態のままで礼拝を終わることとなるでしょう。
礼拝の始まりに聖餐をいただくのは、この世での生活をいったん後にして、
心をイエスキリストの十字架に集中するためです。
十字架に集中することを通して、私たちの霊は主が開いて下さった新しい生ける道を通り抜けて、至聖所に至ることができるのです。
聖餐はイエス様が代々の教会に残して下さった最も分かりやすい十字架の型です。
主の御手よりパンと杯を頂くとき、私たちは主御自身がご自分の体を引き裂いて開いて下さった至聖所に至る新しい生ける道に出会うことができるのです。