主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたに知らせるために。マルコ2章10節

1節:カペナウムは、イエス様のガリラヤ宣教の中心地。

エス様は各地を巡り歩かれたが、働きを終えるとまたセンターとなる地に戻ってきて、そこでみ言葉を語られる。

あなたにとっての拠点はどこか。礼拝を捧げ、み言葉を聞く教会こそクリスチャンの拠点ではないか。週の始まりに教会に行き、礼拝を捧げ、働きを終えて再び教会で礼拝を捧げるために戻ってくる。信仰生活はシンプルな繰り返し。その中で人は成長し、神の働きに交わっていく。

2節:イエス様のおられるところはどこも人で溢れていた。イエス様の伝道がこのガリラヤ地域全体に渡りいかに驚くべき出来事の連続であったことか。

「この人たちに、イエスはみ言葉を話しておられた』

エス様の宣教の中心は何かが語られている。イエス様は福音を宣べ伝えるために来られたのだ。神の言葉なる神が人の姿をとり、そして人に理解できる言葉で神の国の奥儀を語られる。その奥儀は閉ざされたものではなく、人々が待ち望んでいた神の国が到来したこと、人々が待ち望んでいた救い主が到来したことを告げる喜びの知らせである。

エス様は集まるすべての人々に福音を語り続けていたのである。

弟子たちはこのイエス様の語る姿をまじかで見続けた。語り方、語る者にある権威、語る言葉の力、真実、誠実、柔和、愛、温かさ、心にしみわたる豊かな癒し、平和な声、優しいお顔、そのすべてをまじかに見ることが許されていた。

エス様は弟子たちに弟子の道を示していたのだ。

3節より、場面が変わる。喜んで聞いていた人々とイエス様の間に突如、土煙が舞い始め、何か崩れる音と、男たちの声、その声の方向を見上げると、屋根が崩れ始め、その穴から光が差し込んだかと思うと、板に乗せられた一人の男がつるされながらゆっくりとおろされてきたのだ。何事が起ったのか。人々は唖然とした。

しかし、イエス様は平然としていた。今、何が起ころうとしているかを知っていたからだ。

エス様はその人の行為を見ているのではなく、その行為に至る神に対する信仰を見ておられる。どのような動機で神に近づいてきたのか。彼らのしたことは非常識極まりない。周囲の迷惑。

彼らもこの行為が何をもたらすかは理解していた。しかし、彼らは非常識だと知っていても、どうしてもイエス様にこの友人をみてもらいたかった。そのために、最後の手段として屋根から釣り下ろしたのだ。

 やむにやまれずしてしまう過ちもある。あまりにも追い詰められてしてしまう過失もある。その時、イエス様を知っていたならば、また結果は違っていたかもしれない。いや、知っていれば同じ過ちであったとしても、そこに神の憐みの御手が添えられる。その時、ただの過失ではなく、そこからまた希望の芽が生まれてくる。

 彼らはイエス様に癒してほしかった。イエス様は何がなんでもイエス様に近づくことを選んだ彼らの信仰を見て、中風の者に語り掛けた。『子よ、あなたの罪は赦された』

当時、不治の病はその人の罪の結果だと思われていた。どんな悪いことを先祖がしたのか。だから、罪の赦しを宣言されるということは、その人が罪の呪いから解放されたことを意味した。呪いから解放され神の祝福にあずかる者とされたことを意味していた。

因果律は人を縛り付ける。

友人たちは、罪の赦しまでは求めていなかったと思われる。せめて、病が癒されればと。
 しかし、イエス様は親切な御方。肉体の病よりももっと深刻な罪という病をいやしてくださる。この罪という病をいやすことができるのは、神以外にはおられない。イエス様が救い主であるからこそ、イエス様には罪を許す権威があるのだ。

エス様はカペナウムでご自身が罪を許す権威のある神であることを明らかにされた。

ただ、この時、人々はイエス様が何を明らかにされていたのか理解するものはいなかったと思われる。

6節:イエス様は人の心の中で何を考えているかを知る御方。律法学者たちは、この状況を見ながら心の中で呟いていたにすぎない。

彼らは自分たちのつぶやきの中で真理を語っている。彼らの求め続けてきた真理、すんわち、神の国の到来が今ここに来たのだ。しかし、彼らはそのことにまだ気が付いていない。イエス様はこの律法学者たちを非難しているわけではない。

彼らに優しく教えようとされているのだ。『あなたがたに知らせるために」とは律法学者たちのことである。

10節:イエス様は中風の人の罪が赦された証明として、次の言葉を語った『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』罪が赦されたからこそ、病も取り去られたのだと彼らに分かるように示された。

 ここには、律法学者たちがどのように反応したかは記されていないが、ニコデモのような救い主を真に求める律法学者がいたとしたら、このイエス様の出来事を深く考察し、この方が救い主であるかもしれないと思いを馳せたかもしれない。

 私たちが神や教会にかかわることに対してつぶやきや疑問、疑いを持っているとしたら、それは、批判のためではなく、その人の真実さから来ているかもしれない。ただ単に意味が分からないからかもしれない。

エス様は私たちのイエス様に対する心の中のつぶやきを聞いて下さっている。

そして、事象と通して、たとえを通してその疑問に答えてくれているのではないか。

目の前、周囲に起こることの中にイエス様の働きを知ろうとする心を持ちたい。

主はどのように語り掛けて下さっているのだろうかと。

11節『家に帰りなさい』

エス様はゲラサの狂人から悪霊を追い出したとき、

彼がイエス様にお供することを認めず、家族の元に帰るように勧めた。

らい病の人の癒しの時も、すぐに祭司に見せ、らい病が治ったことを証明してもらい、

家族の元へ、コミュニティに戻ることを勧めた。

 イエス様に癒される喜びは大きい。 そしてイエス様の弟子として歩みたいと願う気持ちも分かる。 しかし、癒されたすべての者がイエス様の弟子として直接伝道に携わることを求められてはいない・

 

家族のところに帰りなさい。

今、崩壊寸前の家庭が多い。家庭に居場所を見つけられず、さまよい歩いている若者も多い。若者たちは家庭を持つことに自信を失っている。

その中で救われた若者たちが地に足をつけて家庭を造る、家族を造るということも神様の大切なミッションではないか。

 

世の企業はこぞって若者たちをだましている。

外見ばかりを重視させる教育、世間体を価値基準とさせる教育、いつのまにか若者たちもその教育を信じ、世に操られてしまっている。

 

エス様を信じ、聖書のみ言葉を握りしめていれば、世の教えの風、世の富に目を惑わされることもない。

エス様が養ってくださる。守って下さる。